芋けんぴ農場

自称芋けんぴソムリエが徒然なるままに感想や日々の雑感を記します。頭の整理と長い文章を書く練習です。

【映画】百瀬、こっちを向いて

 

 

 

Warning!   ネタばれを含みます!

 

 

 

 

「どうにもならないことってある」

そんなことは分かってるけど、私(たち)は実らない人を好きになってしまう。

 

 

主人公の相原もしくは百瀬の葛藤に共感するか、早見あかりんの美しい横顔を見つめるためだけの映画です。

 

 

***

主人公の相原と百瀬(早見あかり)は、百瀬と宮崎先輩が付き合っていいるという噂を消すために彼氏彼女の関係を偽装している。

しかし実のところ、百瀬は宮崎先輩が好きだし、宮崎先輩は神林先輩というマドンナと付き合っている(ことになっている)し、相原は関係を続けるうちに百瀬のことが好きになってしまうし…という話だ。

 

 

***

 

 

叶わない恋ってなんでこんなに不毛で残酷なんだろう。


経験値が上がるとか、時が経てば楽になるとか、後になれば真実だなと思う。
でも、渦中の本人としてはそんなこと本当にどうでもよくて、
ただ好きなひとと向かい合いたくて、
自分は好きなひとの好きなひとだと、
好きなひとを前にしたときに感じるもどかしさを、相手もまた感じていると確かめたくて、
この行き場のない苦しさを誰かどうにかしてくれ!と願いながらやり過ごす。

 

 

多分、百瀬が言うように、この世にはどうしようもできないことがたくさんあって、
私たちはそういう不条理をそのままに受け止めなければいけないのだ。
意味づけをするのは後でもいいから、苦しいことを苦しいものとして自分のなかに定義する。
無理になかったことにする必要もない。うわーん苦しいよって泣けばいい。
だから百瀬は葛藤を叫ぶ。大好きだと。馬鹿なひとだとわかってる。大嫌い、と。

 

 

劇中では強かに行動した者だけが結果をつかんでいるが、それは「レベル上げ」の賜物なのだろう。
でも、声を大にして言いたいのは、真剣に人と対峙した結果レベルが上がるのであり、
誰かのために別の人を使ってレベルを上げるのではない。
私には前者が相原で後者が百瀬に見えた。
皮肉にも百瀬は本件で苦しさを昇華し「大人」になるように見える一方で、
相原だけが高校時代にとらわれたまま成人するわけなのだが。

 

 

***

映画としての出来がとても良いわけではないと思う。映像は小刻みにゆれるし(ハンディで撮っているのだろうか?)、宮崎先輩と神林先輩の人物描写がやや少なく、二人のキャラ/思考回路がいまいち見えない。

だが、そんなことどうでもよくなるくらい、百瀬のやや向こう見ずなところも、相原の引っ込み思案も、高校生なりの若さの象徴のようでまぶしい。

そして何より早見あかりんが本当に美しくて、カメラがそっぽを向く彼女に近づくたびに、その髪に、手に、頬に、鼻に触れたいと思ってしまう。まるで彼女(早見あかりというより百瀬にである)に疑似・片思いをしているようだった。胸がつぶれる思いで「百瀬、こっちを向いて」と願った。

 

高校生の若さに戻りたいとは思わないけれど、等身大の気持ちを大切にしたいと思える映画だった。

 

★★★☆☆

【映画】シェイプ・オブ・ウォーター:完全無欠という「普通」への憧れと呪い

 

 

!!!Warning!!! 物語の核心部の描写を含みます!

 

 

 

 

仕事をしていると、「みんなは出来るのに自分だけできない」という場面に遭遇する。
なんでみんな軽々とこなしているのに私だけできないんだろう、
自分がトロいから、頭が悪いから、努力が足りないからだろうか…自分はとてつもなく劣っているのではないか…。
そんな思いに取り憑かれて追い詰められてしまうことがある。

 

「The Shape Of Water」は、上記のような息苦しさに対して差し当たりの回答を示す、現代の寓話であると感じた。

 

***

1950年代頃のアメリカ。
主人公のイライザは、幼少のころに喉についた(つけられた?)傷によって喋ることができない。
彼女は航空宇宙開発の研究所で清掃員の仕事をしているのだが、ある日、航空宇宙開発でソ連を出し抜く切り札として、研究所に半魚人が持ち込まれる。
半魚人の前では、自分に障害があるという特異性を忘れられることから、イライザは半魚人に興味を持ち、二人はやがて恋に落ちていく。
ある日、半魚人を生体解剖するという話を耳にし、イライザは彼を逃がそうと決意する。

 

***

映画を観て思ったのは、「普通の」「ちゃんとした」という線引きを突き詰めていくと誰も残らなくなるんだなということだ。

 

映画の舞台は、公民権運動前夜のアメリカ。
研究所で出世街道を昇るストリックランドとその上司以外の登場人物は、みんなどこか「普通」じゃない。
半魚人はもとより、主人公は話すことができないし、主人公の友達はアフリカ系の女性と失職中でゲイの絵描きだし、
主人公のアパートの階下で劇場を営んでいるのはフランスからの移民だ。


一方でストリックランドは「成功」の体現者たらんとしている。
白人で、軍で武勲をおさめ、研究所での責任ある仕事をし、綺麗な家、美人な奥さん、
絵にかいたような幸せなアメリカの家庭、キャデラック(アメリカの高級車)…
そんな主人公を前に、ストリックランドは言う。自分はお前より神に近い、と。

 

ここで言う「神」は、ストリックランドにとって完全無欠な存在の象徴である。
常に成功し、常にちゃんとしている。
その「ちゃんとしているかどうか」という線引きが妥当かどうかは彼にとっては重要ではない。
しかし、ストリックランドは半魚人の件で次第に窮地に立たされていく。
「普通」を突き詰めれば突き詰めるほど、ふるいにかかる人間は少なくなり、「普通じゃない」人のほうが多くなっていく。
言葉にすると当たり前のようだが、それでも彼は完璧を目指してしまうのだ。
彼は、半魚人によって噛まれた指が腐っていくのと時を同じくして、完全無欠な人などいないと理解するようになるわけだが、
最後、自分の負けを悟って完全無欠な神へのアンチテーゼとして半魚人に向かって問うのである。

「お前は神なのか?」と。

 

***

ストリックランドが、彼の旧来の価値観では「creature」でしかない存在を「神」と呼ぶほどの転換を迎えたのに対し、
主人公のイライザは最後まで旧態依然としている。


この映画のテーマを「異質な存在としての人間の受容」という言葉でまとめるとすると、
その受容には他者に対するものと自分に対するものがあり、彼女は最後まで「話せない自分の受容」には成功していないのだ。
彼女は自分の異質性を忘れられるから半魚人に惹かれたのに、
半魚人と別れる直前の妄想シーンでは、
「You'll never know how I love you...」と太く強い声で、しかも半魚人と手を取り合って踊っているのがなんとも切ない。
結局テレビに映ってた18歳のかわいい女の子になりたいんやん!劣等感忘れてないやん!

 

そんな彼女の救済の場所が水の中だ。
水は普通ではない自分へのすべての眼差しから解放される場所として描かれている。
そして、その水中世界は絵描きやゼルダが残った地上の世界とは隔絶している。
地上界がすなわち現代社会あるからにして、その「水の中の世界」が幸せなのかは我々にはわからない。
しかし、異質であることが普通ならば、いや、それが普通なはずだから、違うことを当たり前に受け入れる社会を作っていくべきなんじゃないか。
というメッセージを強く感じる作りになっていた。

 

***
最後に、多様性を受け入れられる社会を作っていくべき、という主張に対して、ストーリーが勧善懲悪的だったことが気になった。
ストリックランドは「悪役」として造形され、完全無欠とは程遠い姿にされて「倒される」。
人種や性別、職業で人を差別し、半魚人という異質性の象徴に対して暴力的であり、理想に見える家庭に対しても愛がない。
だが、白人で、五体満足で、それまでのキャリアで成功していて、云わば「超理想のアメリカ人」であるもかかわらず、
今回のたった一度の失敗によって、彼は普通という完璧さを追求することに疑問を抱き、二つの価値観の板挟みになる。
ストリックランドは、悪役でありながら、自分が誇りに思っていたものの根幹をひっくり返すような新しい価値観を受け入れるべきか揺らぎ、戸惑う。

ここで、多様性を保証するためには、多様性を拒否するという思想を排除しなければならないことを思い出す。この映画の主張どおり社会が本当に変容していくならば、彼の狭量な思想と行動は、悪として罰せられなければいけない。

しかし、それと同じくして、彼が苦しんだ状況もまた、自分が異質であるという思いと同様に普遍的になるのではないか。
この寓話がメッセージ性を持っているからこそ、ストリックランドには更生と救済が用意されていてほしかった。

(それとも、現代社会はそんな段階にはなく、まだまだ 悪と戦うフェーズだということだろうか?)

 

***


次に某大統領が失言でニュースになった暁にはこの映画を思い出すことでしょう。


★★★☆☆ 3.5

 

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【映画】風立ちぬ

 

 

Warning!  ネタバレを含みます!

 

 

感想を書く気はなかったうえに、途中まで書いた記事がうまく保存されずに消えてしまって戦意喪失しているのだが、備忘録的に簡単に書く。

 

***

飛行機に憧れ、恋した少年・堀越二郎の話だ。

二郎は幼いころから飛行機が大好きだった。彼は飛行機を設計することを夢見て、東大を経て三菱重工業に入社する。失敗もあれど、彼は若くしてドイツ留学、設計チーフなどを次々と任される。会社のホープである。

一方、彼は会社の休暇中、軽井沢で菜穂子と再会する。彼女は、東大に入学するために上京していた最中に遭遇した関東大震災で、二郎が助けた女性だった。瞬く間に恋に落ちる二人。結婚の約束をして二郎は軽井沢を去るが、その時すでに菜穂子は結核を患っていた。

結核を治したい一心で、独り高原のサナトリウムで療養することを決めた菜穂子だが、二郎からの手紙を読んで、彼に会いたい一心で二郎のもとに来てしまう。そこで正式に結婚する二人だが、二郎は会社の期待を一身に背負い、仕事で多忙を極めていた。

そして、菜穂子はいよいよ結核が進行していることを悟り、誰にも告げずにまたサナトリウムに独り戻ってしまう…。

 

***

 

この映画ね、途中まですごく好きなんですよ。

これが公開された時に、当時のサークルの先輩が

菜穂子のことが心配で仕方なく涙してしまいながらも、飛行機への憧れから仕事をする手を止められない二郎が美しいと思った。

というようなことを言っていて、なるほど確かにそうだなあと思いながら観ていた。好きで好きで仕方ないことを持つ幸せというか、そういったことへの憧憬が私にはあって、純粋に二郎のことが羨ましいと思った。

 

でも、それはある種の呪いでもある。

貧乏な国が飛行機を持ちたがる。矛盾だ。

という、同僚である本庄の言葉に表されるように、この映画には確かにいくつかの葛藤が埋め込まれている。

その最たるものが菜穂子さんだろう。彼女を愛しているけれども、飛行機のことがあるから傍にいてやれない。そして彼女と共にサナトリウムに行くこともできない。

彼にとって飛行機は唯一絶対の存在であり、恐れずに言ってしまえば菜穂子さんよりも断然飛行機の方が大事なのだよね。それは、菜穂子さんが可哀想だと妹になじられたとき、

僕たちは一日いちにちを大切に生きているんだ。

と返した二郎の台詞によく出ている。菜穂子さんが一日でも多く生き延びることよりも、今ここでしか出来ない飛行機の設計をしながら、菜穂子さんと一緒に暮らす方がいいということ。

 

***

 

ここまでならまだ良かったのだが、最大のモヤモヤポイントになっているのが最後の「ありがとう」だ。

創造的寿命の10年が過ぎ、終わってみれば、自分の作った飛行機は国を亡ぼし、戦争の道具になっただけだった。愛した人も死んでしまった。

このような状況で、彼は菜穂子による赦しを得てワンテンポ置いて「ありがとう」と返す。好奇心のある限り作り続けねばならない。命ある限り生き続けなければならない…というメッセージだろう。(これを引退作で言うということは監督自身へのブーメランにならないのだろうか?)

 

これは私のものすごいエゴなのだが、私は二郎にはもっと悩んでほしかったのだ。自分の夢、憧れ、それらを実現した一方で、彼はちゃんと自分のしていることへの矛盾に気づいていた。そして、いつかその代償を払う日が来ることもわかっていた。(これを表すのがトーマス・マンの『魔の山』のくだりだ。)

そのような葛藤を全部抱えたままラストに突入したのだから、それを菜穂子さんのたった一言で解決・救済してほしくなかった。自分はなんと多くのものを犠牲にしたのだろう、そして何より、彼女の赦しを受け入れていいのだろうか?と、もっとドロドロに悩んで涙して苦悩してほしかった。

 

そう思うのは、私が才能を持たない側の人間であり、いつもいつも取り憑かれたようになってしまうほど好きなものも無い人間だからなのかもしれない。

そういう「何か」がある人にとっては、こんな悩みなど考えるに及ばず、粛々と「壮大な事業」を成し遂げていくだけなのかもしれない。

 

***

 

ここまで思い至ったとき、アレ?デジャヴだな?と思った。

そう、これは『夜間飛行』だ。

監督が飛行機マニアであることからして、サンテグジュペリを愛好していることは想像に難くない。そして、夜間飛行ではないが、『人間の土地』に関しては表紙絵まで描いている。

才能・夢、そして生活。どうやらこの二者は両立しないのかもしれない…関係ないことと分かってはいるのだが、仄かな絶望を感じながら筆をおくことにする。

 

 

湧き上がる情熱に敬意を表して

☆☆☆

 

 

 

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【映画】ノッティングヒルの恋人

 

 

Warning!  ネタバレを含みます!

 

 

なんかバレンタインデーらしいのでノリで観てみた。感想もノリで書くぞー

 

イギリス留学していた時、日本人にとってのジブリというか、みんな観ていたり、ある程度粗筋や有名なシーンを知っていて当たり前な映画がイギリス人にとってもあることに気付いた。具体的には、ディズニー映画全般(特にライオンキング)、スターウォーズ、ラブアクチュアリー、ヒッチハイカーズガイド(The Hitchhiker's Guide to the Galaxy)、そしてこのノッティングヒルの恋人、あたりではないだろうか。

 

有名なので説明するまでもないかもしれないが、ジュリア・ロバーツ演じる大女優であるアナ・スコットが、イギリスの冴えない本屋の主人と恋に落ちる話だ。

この映画と言えば!なシーンが、家のドアを開けたら取材陣が蠢いていて写真を撮られまくる場面だろう。それだけ知っていて視聴し始めたのだが、最初から最後まで違和感しかなかったぞ!

***

 

まず、大女優が本屋の店主に一目ぼれ?していきなりキスして帰っていくところ。

どんだけ軽いねーん!!!と突っ込みたくなった。というか突っ込んだ。

でもまあ、遊ばれてるのかなって思うじゃないですか。フィクションとか置いといて現実的に考えるならば。しかし、その後、アナが本気っぽい感じでデートし始める。

一方、ヒュー・グラント演じる本屋の主人であるウィルは、この時点ではまだ信じられない感じが良く出ていて好印象だった。彼のおかげでこの映画の脚本の不自然さがだいぶんほぐれていると言っていい。

ただ、アナにキスされまくっているうちに本気になっちゃうんだよね。

 

で、アナに彼氏がいたことが発覚するんだよね笑

ほれみろ!みたいな笑 現地妻ならぬ現地彼氏だったわけでした(失敬)

傷心のウィルは、合コン?見合い?をしまくるんだけど、やっぱりアナのことが忘れられない。「出会いは奇跡だよ!」なんつて。

 

そこに、またアナがやってくる。昔のヌード写真をばら撒かれて傷つき、また、マスコミからの逃げ場としてウィルの家を選んだのだ。ザ・都合のいい男!

そこで、またグレーな空気が流れた後に、ついに関係を持ってしまう。その翌朝、ウィルが玄関のドアを開けた瞬間にパパラッチ、その後アナも無邪気に(?)ドアを開けてパパラッチ、錯乱したアナはウィルに罵声を浴びせて去っていく。

ここから先の細かいところはまあ観てください、ということにしておこう。

***

 

全体として思ったのは、コレは男の人版少女漫画なのかな?ってこと。

ある日突然、めっちゃ綺麗な人が自分が好きであるかのような行動をしてくる。キスとかキスとかキスとか。

実際、そんなうまくはいかなくて、途中相手に彼氏が居ることが発覚したり、パパラッチされたり云々するんだけど、それでもアナはやっぱり一途にウィルのことを想っている。そして最後にようやくウィルに関係を決める選択権が回ってくる。

これ、男女逆転させたら少女漫画でよくあるやつだよね?身分違いの恋、身分が上でしかも超絶ハンサムな相手からの求愛、相手の恋愛がらみのハプニング、身分違いについての社会的バッシング、求愛アンド求愛、好きかもしれない、行き違い、そして最後には自分に選択権が与えられる…という。(ぱっと思いついた限りだと、漫画『姉の結婚』がかなり近い構図だと思う。)

これはつまり、男の人もこういう、「求められて困っちゃった末に相手を選ぶ」という乙女的展開を望んでいることを意味するのだろうか?というのも、この映画は脚本的に女(アナ)には感情移入できないようになっている。全編を通してウィルの視点でしか語られていないから、アナの振る舞いは(少なくとも私から見ると)とても自分勝手に映るのだ。それでもこの映画がウケるのは、「いいなあ、こんな恋愛できたらなあ」って思っているから…としか説明がつかないのである。

***

 

まあ、たまにはこういう話もいいかもね、フィクションだし()

しかし、この非現実感とは裏腹に、映画としてはコンパクトで、ずっと画面に引きつけられた。あまり難しい伏線を張らず、多くの人が素直に解釈できるまっすぐな表現の心地よさのせいもあるかもしれない。

でも、やっぱり最後に言いたい。

 

何もしないのに理想ななめ上の相手に好かれるなんて、そんな都合の良い話ありませんからーー!!!

 

 

☆☆☆

 

 

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【映画】卒業

 

 

 

Warning!  ネタバレを含みます!

 

 

 

I want to be ...... different.

 

主人公のベンジャミンは成績優秀、いくつかの部活でリーダーを務めるなど、将来を期待されて大学を卒業した。

でも卒業後、家に戻る途中から彼は鬱々としている。この時の彼の心情を端的に表したのが上の台詞だ。周囲の人は自分はすごいと言う。そんなの上辺のお世辞だ。自分の人生それでいいんだっけ?

そんな時、彼の卒業祝いのパーティーで、彼は親の会社の共同経営者の妻、ロビンソン夫人に半ば陥れられるようにして関係を持ってしまう。ずるずると関係を続けるベンジャミンだが、何も知らない親から彼女の娘のエレインとデートしてくるように勧められ、渋々出かけてみると、あっさり彼女と恋に落ちてしまう…

 

***

 

この映画のタイトルである「卒業」は、世間体だけを頼りにする受動的な人生からの卒業であるように思われる。だから、この映画で重要なのは「決断」だ。しかし、幸せな形で「卒業」するのは主人公のベンジャミンとエレインだけだ。

 

冒頭で紹介した通り、ベンジャミンは大学を卒業した後、毎日悶々と過ごしている。大学院に進学することを勧められても断り、不倫する以外は何もすることが無い、まさにニートである。彼はおそらく、世間の評価を最優先させて大学まで生きてきた。だが、それに疑問を感じて身動きが取れなくなったために、積極的に選ぶことをしなければ、積極的に断ることもない。だからずるずると、会話する話題もないおばs…いや、淑女(熟女?)との不倫を続けてしまうのだ。しかし、母親と関係を持ったことをエレインに告白したことで、母娘双方との関係を壊してしまったあと、彼はエレインが好きな気持ちだけを頼りに、彼女と結婚するために彼女の大学まで追っかけることを決める。そのことをベンジャミン父に報告した時の会話がこうだ;

父;Ben, this whole idea sounds pretty half baked.

べ;No, it's not. It's completely baked. It's a decision I made.

 

この瞬間が彼の「卒業」である。これは、彼が自分で決めたことだから「生焼け」ではないのだ。これ以降、彼は彼女と結婚するために必死で行動する。客観的に見ればただのストーカーなのだが。

 

一方、エレインは大学で医学部生の彼氏を作り、最初ベンジャミンが大学に来たことを知った時にはかなり鬱陶しげである。

しかし、彼女自身も非常に揺れていて、母をレイプしたらしい男(ロビンソン夫人は不倫のことを、ベンジャミンにレイプされたとして家族に説明した)をまだ好きな自分との決着がつかずにいる。しかし、最後の最後で、自分の名前を叫び続けるベンジャミンの姿を見て決心するのである。その直前に出てくる、彼女の母、父、医学部生の彼氏が彼女に鬼の形相で叫んでいるシーンは、彼女に世間体を守ることを強いるしがらみの象徴のようだ。自分に向けて怒鳴りまくる3人を見て、彼女は世間体ではなく自分の心が向く方を選択することを決め、彼女も「卒業」する。

 

だが、一人「卒業」出来なかった人がいる。ロビンソン夫人だ。

彼女は夫への愛情はとっくの昔に無くしているように見える。エレインを身ごもってしまったから仕方なく結婚し、仕方なく今まで一緒にいただけだ。

そんな彼女が初めて(?)決断したのがこの不倫だったわけだが、ベンジャミンが彼女との不倫を娘(エレイン)に告白したことで、彼女は今まで自分が守ってきた夫との関係も、今回決断して得たもの(ベンジャミン)も失うことを悟る。そしてベンジャミンとの縁を切り、逆に彼と娘の恋路を邪魔しようとする。

最後のシーンで、ベンジャミンが結婚するためにエレインの前に現れた時、彼女は最初は余裕な風である。エレインは自分のように世間体を優先させると思っているからだ。しかし、エレインがそうしないとわかると取り乱し、最後は娘にビンタを浴びせて叫ぶ。

ロビンソン夫人;It's too late!

それに対するエレインの返しが痛快だ。

エレイン;Not for me!

もちろん、これはNot for me, (but for you)!ということだろう。彼女は母親が世間的価値観に縛られているのも、そうする他にないほどに年を重ねてしまったのも知っているから、自分はまだ間に合うんだ!と叫んで母親と決別するのだ。

 

(本題からはずれるが、この母にしてこの娘ありというか、、恋人がいながらベンジャミンとキスするエレインもエレインだ…大体母親と不倫してた男を選びます?)

 

*****

こうして概ねハッピーエンドなのだが、この映画の主張に対してはなんだかな、もっと楽に生きても良いんじゃないかな、と思ってしまう。

おそらく、作り手としても、こうして世間体を守ることを否定して生きることは幸せいっぱいなことではない、と認識している。その証拠に、ラストシーンでバスに乗る二人はどこか諦めたような、少し寂しい顔をしている。

世間体を徹底して否定しながら生きると、その分摩擦も大きくなって孤立しかねないと思う。この映画の二人のように0か100ではなくて、一部世間の価値観も取り入れながら、譲れないところだけ無視する方がずっと楽なんじゃないかな。はっきり否定することだけが偉いんじゃなくて、表面的には態度を保留しながら、自分の中では絶対に認めないとか、何らかの形で自分で折り合いをつけたほうが、周りの人の助けを得やすくなるのは事実だと思う。

最近よく思うのだけど、平凡な生活も、簡単に何かの拍子にうまくいかなくなる。だから、ある種の保険として、(それに人間関係にそんなに潔癖にならなければいけない理由なんかないわけだし)薄くでも良いから周囲との関係を温存しておくのは悪いことではない。映画としては地味だから取れない選択だとは思うけど、派手に反発すること=能動的に生きること、ではないことを知るべきだ。

 

***

そういう青臭いというか、今にも崩れてしまいそうな価値観を、ダスティンホフマンがよく演じていたと思う。特に、前半の悶々としているシーンでは文字通り死んだ魚の目、エレインにスイッチが入ってからは本当にエレインのことしか考えてない目をしていて面白かった。

また、Simon & GarfunkelのThe Sound of Scilence, Scarborough Fairがそういう言いようのない不安をよく醸していてとても印象深かった。

 

人生哲学的な何かを得るというよりも、劇中人物たちの若さを楽しむ映画なのだと思う。

ちょっと字幕の翻訳が雑なのが気になったよ。

 

 

☆☆☆

 

 

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【映画】サイコ

 

 

Warning!  ネタバレを含みます!

 

 

 

今回は言わずと知れたヒッチコックの名作、サイコ。

人間は理解できない存在を前にしたときに怖いと感じるのかな、と作品を通して気づいた。

 

***

主人公のマリオンは長年勤めた会社の金を持ち逃げした旅に出ていた。大嵐の夜、彼女はノーマンという若い青年とその老母が経営する寂れたモーテルに宿泊する。そこで、かの有名なシーンと共に彼女は何者かに殺害される。

その後、横領に気付いた会社がマリオンを探しに、私立探偵をモーテルによこすのだが、探偵はマリオンの姉・ライラに「モーテルの青年に匿われているのではないか」と電話した後、殺害される。

探偵が戻ってこないことを不審に思ったライラは、マリオンの恋人のサムと共にモーテルに乗り込む。モーテルの老母がマリオンを悪く言っていたことを探偵から聞かされていたことから、サムがノーマンを足止めしている間に、ライラは老母と話をつけに、離れの屋敷に足を踏み入れ、真相に迫る。

 

 

***

観客は、サスペンスらしく「誰がマリオンと探偵を殺したのか?」という謎解きをしながら観ることになるのだが、とにかく観客を混乱させる仕組みが素晴らしかった。

最初のマリオンの殺人では、結構背の高い人物であることを見せ、ノーマンが主犯なのかなと思わせる。しかし、その後彼が殺害現場に到着したとき、一瞬驚いたような表情をしつつも、淡々と遺体を処理していく。ここで既に筆者の頭は大混乱である。次に、探偵が殺された時ははっきりと老母のようなシルエットが映る。ここで、ああ、この青年は殺人狂の母親の尻拭いに慣れているのかもしれないと思い始める。

だが、その後、老母は遥か昔に色恋沙汰で心中したという情報が加わり、さらに頭が混乱することになる。

 

***

そして、真相が明かされて一応全ての伏線が回収されるわけだが、最後にまさに「サイコ」な顔をした犯人の顔を見ると、理解の範疇を超えるものに対する得体のしれない恐ろしさに包まれた。

映画中盤までの犯人捜しのドキドキとは違って、内臓を舐められたような気味の悪さであった。この映画を観たのは数日前なのだが、犯人捜しのスリリングさは短期的に最高点に達してすぐに忘れ去られるのに対し、この気味の悪さ由来の恐怖感は今でも残っている。

 

シンプルでありながら名作と謳われるのは、このような異なるインパクトが計算して盛り込まれているからではないだろうか。

 

☆☆☆☆

 

 

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【映画】バルフィ!人生に唄えば

 

 

Warning!  ネタバレを含みます!

 

  

心は言葉より重い。

この主題を繰り返し、主人公のバルフィのような率直さで描いた映画だ。

 

*** 

バルフィは耳が聴こえず、話すこともできない。しかし、彼は自分の気持ちを迷いなく伝える。全身で表情し、瞬く間に見る者の感情をさらってしまう。

シュルティもその一人だった。彼女は資産家の美しい娘で、バルフィの猛アプローチに次第に心が傾いていく。しかし、バルフィとデートを重ねる間も、彼女は婚約を破棄することができない。バルフィには両想いであることを示しながら、婚約者との関係も切らない彼女に彼は激怒し、彼女の元を去ってしまう。

そしてシュルティはバルフィに未練たらたらのまま結婚。一方、父親が急病に倒れ、金策に困ったバルフィは父の元雇い主の家の娘・ジルミルを誘拐して身代金を請求することを思いつくのだが、幸か不幸か別の何者かに誘拐された彼女に偶然出くわす。時すでに遅しで父親が亡くなってしまったことから、バルフィはそのままジルミルと旅に出る。彼女は自閉症であり、最初はバルフィを恐がっていたが、次第にバルフィの朗らかさに惹かれ、恋仲になっていく。

旅の途中で偶然シュルティに会った際にジルミルが彼女にやきもちを焼いたところから、ジルミルは失踪する。失意に沈むバルフィを支えようと、シュルティは結婚生活を捨てて彼に寄り添うが、バルフィの気持ちが彼女に向くことは無かった。

結局、ジルミルは親類が経営する施設で暮らしていることが分かり、バルフィは彼女を訪ねて彼女の気持ちを確かめ、二人は文字通り死ぬまで幸せに暮らした。

 

***

言葉が聴こえず、話すこともできないバルフィが何より信用したのは、相手の態度である。それはシュルティとジルミルに拘わらず、友達でも同じだ。

この映画では、言葉は仮初めの態度、心は本心や無垢な心情の象徴としてそれぞれの単語が使われており、「言葉」も「心」も日本語の意味とは100%一致しないように思われる。確かに最初の方は特に、バルフィには言葉が聴こえないということが問題にされるのだが、結局肝心なのはそれを示せるかどうか、という一点にかかっているからだ。もしかしたら翻訳の問題があるのかもしれない。

 

とにかく、この「態度/心こそが大事なのだ」というメッセージを象徴している思われるのが、電燈のシーンである。

バルフィは、電燈が倒れるすぐそばでそれを見守るという肝試しをしていた。相手は自分を信頼して、最後までひとり逃げずにおれるか、すなわちどれ程強い絆で結ばれているか、というのを試すためである。

映画冒頭で映った友達も、シュルティも逃げた。でも、ジルミルは逃げなかった。バルフィはきっと、あの瞬間からジルミルに一生を捧げることを誓ったのだろう。

 

彼にはどんな飾った言葉も通じない。だからこそ、彼はこの「試練」をクリアしたジルミルを選んだのだ。電燈が倒れてくるときにシュルティが手を放してしまったのは、婚約者と結婚することを選んでバルフィの元を去ることになる予兆だったのである。

 

***

ところで、この映画にはいくつかの映画のオマージュと思われるものが存在している。タイトルが『雨に唄えば』を意識しているのはもちろんのこと、劇中音楽や、シュルティとバルフィが自転車に乗るシーンは『アメリ』を、物語の最後の、病院でのバルフィとジルミルのシーンは『きみに読む物語』のオマージュなのは間違いない。

しかしながら、この映画で表されたリスペクトとは相いれず、筆者は『きみに読む物語』があまり好きではない。その最大の理由は、三角関係で敗れる側の人間が悪者扱いされている点だ。現実がそんなに単純なら誰も苦労しないし、悪者だって愛していた人に捨てられたら悲しい、その悲しみはすべて無視して二人でハッピーエンドで良いのかい?と言いたくなるのだ。

その点、この映画では、バルフィ、シュルティ、ジルミルの三人の間に悪者がおらず、最後にジルミルとバルフィが幸せな生活を送る様子がシュルティ視点で語られていることにとても親切さを感じた。前述のように、より現実に起こりうる感情や論理に合わせて物語の落としどころがつけられているからだ。具体的には、シュルティが、正直ジルミルが失踪して少し喜んでいる自分がいました、と告白していること、そしてそれに乗じてバルフィについていったが上手くいかなかったこと、しかし最後はバルフィのパートナーはジルミルなのだと認めること、そしてその後の人生は聴覚障碍者学校の教師として過ごすことなどである。

 

***

シュルティは言う。「もっと自分の心にしたがっていればよかった、私が間違っていた」と。

確かに結果だけ見れば、彼女は元彼に未練がありすぎて夫から家を追い出されたうえ、その元彼にも相手にされなかった「負け犬」(とでも言えばいいのだろうか)である。

でも、彼女は惨めな負け犬ではない。私は、彼女が一番、人間くさい愛にあふれた人だと感じた。皮肉にも、「心に従い」「無垢な心で相手を思いやる」というバルフィとジルミルの在り方を手に入れた結果、彼女は二人の結婚を後押しするほかはなかった。でも、彼女はそんなスタンスを捨てるという決断だってできたはずだ。その時、自分の好きな人が別の人を選ぶ瞬間を自分の意志で後押しできるだろうか。この葛藤の泥臭さに、私は共感してしまうのだ。

 

 

***

前半のコメディ調で油断していたら、あっという間にシリアスな三角関係が始まっていて戸惑ってしまった。

バルフィという若干空想的なキャラクターを用いながらも、フィクションだから、という甘えを極力排除した良い作品だった。

☆☆☆☆

 

 


映画『バルフィ! 人生に唄えば』予告編 - YouTube

 

 

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