芋けんぴ農場

自称芋けんぴソムリエが徒然なるままに感想や日々の雑感を記します。頭の整理と長い文章を書く練習です。

野心のすすめ/林真理子

Warning!  内容の核心部に触れています!

 

最近は更新が滞っていたからどんどん行きます!!

悟り世代に向けて書かれたのにバブル世代にしか届かない稀有な本である。

著者の林真理子さんという方は、昔何かと世間を騒がせた人だったらしいということすらこの本で知った程度の前提知識で読み始めたのだが、私はこの人の本は一生読まないだろうなと思わざるを得なかった。

 

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著者は、様々な逆境を圧倒的な野心でもって克服し、成功をつかんできた。中学校でいじめられた時は勉強したり先生にゴマをすったりして県内一の進学校に入学したり、有名になりたくて、コピーライターとして成功したくて、誰よりも目立つ格好で糸井重里さんのコピーライター養成塾に通ったり。

そんな著者からすると、現代の若者の在り方は野心が足りず、目標値を低めに設定しているために成長する機会が奪われているのだという。そのため、著者の成功体験をこの本につづることでそういった人たちに発破をかけたい、というのが本書の目的だという。

 

***

いや、ここまでは良いのだ。

この本で何が受け付けなかったかと言われれば、著者にとっての「成功」の定義だ。

著者の成功とは、社会的な地位とお金を手に入れることの二つだ。本書のなかでは、繰り返し、お金がないことがどんなに惨めか語られる。そして、それら、地位と金を手に入れた者が「勝者」であり「一流」であるということが、さも当然でしょ?というスタンスで書かれた文が山ほど出てくる。

私が最近の人を見ていてとても心配なのは、自分の将来を具体的に思い描く想像力が致命的に欠けているのではないかということです。

(中略)

より具体的にいえば、「このまま一生ユニクロを着て、松屋で食べてればオッケーじゃん」という考え方です。

(中略)

四十代、五十代になって、毎日が全身ユニクロでは、惨めこの上ないわけです。年齢を重ねると、素材の高級感があるものをたとえ一点でもいいから身につけていないと、単なる哀愁の中高年になってしまう。

この文を読んだとき、私はバスの中で「おおきなお世話じゃーー!!!」と叫びそうになった。 この人がやっていることは、人間を属性値でタイプ分けし、この人はオッケー、この人はダメと選別することと同値であり、それを自分に許すとは何様なのか?と苛立ちを禁じ得なかった。

人生を語る際の基本姿勢は「みんなちがってみんないい」であり、自分はこうだったよ、以上のものを他人に言うことは出来ないし、許されないと思っている。それを簡単に踏み越えて、自分の結婚式のドレスはベルサーチだったとか、もうエコノミークラスには乗れないだとか、ママチャリで髪を振り乱して子供の送り迎えしている人はかわいそうだとかいう価値観をもとに、ほら、だから野心をもってもっと頑張りなさいよ、などと言われてもこっちが困るのだ。

著者の目には、「今どきの若者」は欲望や努力が足りないように見えるのかもしれない。しかし、それは著者のような価値観を知ったうえで意図的に選んでいるのかもしれない。新しい幸せの形を見つけたのかもしれない。もっとそういった可能性にも目を向けて欲しかった。これではただの押し売りだ。

大金持ちになってベルサーチのドレスを結婚式で来て飛行機を使うときにはいつでもビジネスクラスがいいとか、私はそんなことはどうでもいい。

自分がやりたいと思うことを、自分の人生を使って実現することが私の幸せであり、目標であり、そのように自分の内部を見つめながら、戦いながら、目標一点を見つめて努力する人が私にとっての一流なのであって、決して社会的評価を得るために四苦八苦する人ではない。

 

***

一応言っておくと、著者も死に物狂いの努力をしたと書いてある。ただ、その目標が自分の外面に向いているのが受け入れられないだけだ。もちろん、これは私の一つの価値観にすぎず、世の中にはこの著者のような価値観を持つひとが居ることも知識としては知っている。だが、どうかそれを押し付けないでほしい。私は私の思うように生きるし、そこにあれがダメだ、これがダメだと言われても、何をダメと思うかが違うのだから話がかみ合う筈が無いのだ。

ここまで書いて、私もまた、自分の価値観を強固な壁のように積み上げてほかの価値観を否定する者であることに気付く。

教養とは、自分とは別の価値観も許容することだ。

(樋口裕一  頭がいい人、悪い人の話し方)

まったく異なる価値観を前に、自分がどういう反応を示すのかを試すリトマス試験紙には最適な本である。

私ももっと「教養ある」人間になりたいです、はい。

 

 

 

野心のすすめ (講談社現代新書)

野心のすすめ (講談社現代新書)

 

 

TUGUMI / 吉本ばなな

Warning!  ネタバレを含みます!

 

大人になるってどういうことなのか、最近考えている。

年をとることが大人になることではない。でも、私は多分、小学校で自分が世界の王様のように思ってた頃よりは何かが「大人」に向かっていると思う。それは何だろう。

そんなことを、この本を読んで考えていた。

というのも、この本はタイトルになっている人物・つぐみが少し大人になる話だからだ。

 

***

つぐみは、物語の語り手である白河まりあの従妹だ。病弱に生まれたために甘やかされた結果、『意地悪で粗野で口が悪く、わがままで甘ったれでずる賢』く育ってしまった。

つぐみの家は山本屋という旅館を営んでおり、まりあは東京の大学に進学するまでこの旅館の離れに母と一緒に住んでいた。この山本屋が店をたたむことが決まり、まりあがつぐみと山本屋で過ごす最後の夏が物語のメインである。

つぐみは恭一という青年に出会い、恋に落ちる。恭一は新参者であることから町のチンピラとひと悶着起こすのだが、物語のクライマックスで、つぐみがそのチンピラに復讐をする。彼女はその時の無理が祟って酷く衰弱するのだが、そこで「精神的な死」を迎え、まりあへの遺書で物語が閉じられる。

***

つぐみは、確かに酷い子だ。まりあの部屋を荒らすことは日常茶飯事だったようだし、亡くなったお祖父さんをダシにしてまりあに悪戯を仕掛けたり、まあ色々と酷い。説明になっていないけど、とにかく酷い。

 

最初読んだ時は、何故周りの登場人物(まりあやつぐみのお姉さん、まりあのお父さん)がつぐみに対して穏やかで居られるのか全く解らなかったけれど、つぐみはただ純粋なだけだということを理解しているからだと思うようになった。

つぐみは、世界とつぐみ、という些か単純すぎるとも言える関係の中で生きている。病弱だから布団のなかで生きること、死ぬことについて考えを巡らせたことも少しは関係しているのだろうか。(ただし、本人は物語終盤の出来事まで死ぬことが目前に迫った感じは無かったと言っている。)やりたいことをやり、ただ、少し素直でない方法で表現をし、怒るときは全身から怒る。言い方や言葉のチョイス、表現方法が普通でないから、最初は関わりたくない感じの子、という印象を私は持ってしまった。けれど、先ほど挙げた三人はつぐみの本当のところを知っている。彼女の純真さから発せられる輝きを。

でも、その純真さはある種の幼さの裏返しでもある。世界というぼんやりとした集合体の間に様々な人を挟めば、その人たちの気持ちや利害を考えざるを得ないが、つぐみはそんなこと全くお構いなしだ。こう思い至ったとき、私は自分の小学校時代の傲慢さを思い出した。今でもそうだけど、昔は特に、私は怒ったぞ!と思えばそれを抑える方法なんか知らなくて、相手が誰だろうと怒って、たくさん喧嘩をして、まあこんなネガティブなことばかりでは無かったにせよ、とにかく自分の感情が世界の100%だった。この、自分の感情が世界の100%っていう状態がつぐみなのではないか。

 

けれども、このつぐみの世界の均衡は恭一の出現によって破られる。つぐみは彼に恋することで変わるのだ。(恋ってすごい!w)

「今までってさ、何がどうなっても、相手が目の前で泣きわめいてても(中略)、ほとり、って感じだったんだよね。対岸の火事を暗い川辺で見てるのさ。いつ火がおさまるかまで見えちまって、眠りそうに退屈だった。」

「だけど、今回は参加してるって感じがしてる」

恭一がつぐみの世界の参加者になったことで、彼女は前よりも少しだけ自分のこころを素直に表現するようになった。そして、物語の終盤で実際に死にかけるときは本気で死を悟ってまりあに遺書を書くわけだが、この死はつぐみと世界の二つしかアクターの居ない世界観への決別のように思える。その証拠に、つぐみは初めて死への恐怖を感じている。主体としてしか世界を見なかったから死への恐怖感も何も感じていなかったけれども、恭一を始めとして、他者の存在を自分の世界に感じるようになったから、その存在を無くすことを急に死が怖くなったのではないか。

 

最初の話に戻る。

大人になるということは、様々な人で自分の世界を作っていくことなのかもしれない。 勿論、誰だって自分が自分の世界の主役である。しかし、助演俳優が、エキストラが、スタッフが居てこそ一つの映画が出来上がるように、それは人生においても同じなのかもしれない。とすると、様々な人と出会い、それぞれの人生の一部を自分の人生と噛み合わせていくことで得られるものが成熟さであり、そういったプロセスを経て成熟さを増すことが大人になることではないだろうか。

 

最後に、好きな文を引用して終わる。そう、この抱えているものの重さによろけそうにな夜には、パートナーでも友達でもいい、誰かの人生に参加することは自分の重さを持ってもらうことでは決してないだろう、とぐるぐる考えて眠りにつく。 

ひとりの人間はあらゆる段階の心を、あらゆる良きものや汚いものの混沌を抱えて、自分ひとりでその重みを支えて生きてゆくのだ。まわりにいる好きな人達になるべく親切にしたいと願いながら、ひとりで。

 

☆☆☆

 

 

TUGUMI(つぐみ) (中公文庫)

TUGUMI(つぐみ) (中公文庫)

 

 

 

言の葉の庭

Warning!  ネタバレを含みます!

 

ご存知、新海誠の最新作。

最近は大成建設のCMも作っているよね。この映画にもお金を出しているようで、劇中の駅の広告に名前が出てたっけ。

 

いつものようにあらすじをまとめよう思ったけど、すごく野暮なのでやめてしまった。文字にしたらなんだか陳腐に見えるけど、多分この監督の作品の良さは、言いたいことをリアルに感じさせる劇中の空気感なんだと思う。だから、短い作品だし、見て欲しい。

 

なので、以下は自分のために話を整理することにする。

葛藤とその救済についての物語だ。

主人公は靴職人として社会に挑みたいと思っている。だから本当は高校でつまらない授業なんか聞いている場合では無いのに、と焦っている。周りの大人は、自分の夢を聞いたらどうせ叶うわけないと思うだろう、と分かっているからこそ、彼は焦っているのだ。

一方、雪見の葛藤は職場である学校を放棄していることだ。毎朝スーツを着て、今日こそは行こうと思っているのに行けない。しかし、彼女は主人公が靴職人を目指してもがいていることを知って知らず知らずのうちに共感し、惹かれていく。困難を自覚しながらも、到達しなければいけない世界に向かっていく主人公は、社会への恐怖心を和らげるような存在だったのだ。

だから、ラストで主人公に「(靴職人に)なれっこないって言えよ!」「そうやって大事なことは言わないで、自分は関係ないって顔して、一人で生きていくんだ」と言われた時に、「あの場所であなたに救われていたの」と返すことになる。そして、この言葉自体が主人公にとっての救済になる。大人という存在に、初めて靴職人という夢を追うことを認められることになったからだ。

 

やっぱり、文字にすると変な感じだ。

あの映画も(秒速5センチメートルと同じように)その場の空気感を楽しむものなのだと思う。そういう意味では究極的に娯楽に徹した作品なんじゃないかな。

論理的に、あなたはどう思う?といったような主張は何もなくて、ただ物語が目の前で流れていくのを楽しむ作品。もちろん、鑑賞しているあいだに、主人公に感情移入して楽しさ、切なさ、驚き等を感じるのだけど、それは主人公の感情の起伏と一緒に過ぎ去ってしまう。だから、観終わったら不思議な感じがする。何の抵抗感もなく違う世界に行ってきた、みたいな感じなのかな。

 

これからの梅雨の時期に新宿御苑に行きたくなった。

(ただしお酒を飲んではいけないそうです、無念)

☆☆☆

 

 

劇場アニメーション『言の葉の庭』 DVD

劇場アニメーション『言の葉の庭』 DVD

 

 

 

秒速5センチメートル(1)

秒速5センチメートル(1)

 

 

ウエハースの椅子/江國香織

Warning! ネタバレを含みます!

 

わかるようでわからない、手が届きそうで届かない。

冷静と情熱のあいだ』を読んだ時もそう感じた。

もしかしたら、あと5歳、もしくは10歳くらい年をとったら、江國香織の世界を完全に理解し、共感したり反発したりできるのかもしれない。というのも、私はこの『ウエハースの椅子』を高校生の終わりだか大学生の初めだか、つまり5年くらい前に読んでいて、その時は本気で、書いてあることが全く理解できなかったからだ。年を重ねて、相応に考えることができるようになったから、少し進歩した…と信じたい。だから、或る意味、彼女の小説は自分の成熟度合の指標になりそうだ。その「成熟」が自分の望むベクトルのものであるかどうかは別として。

 

さて、この話の主題は、孤独と絶望についてである。

主人公の絵描きは、今の彼氏と「会ったときから、すでに恋をしていた」。彼には妻子があるのだが、それでも彼らは互いに恋に落ち、一緒に居る時間をこの上なく満ち足りていると感じる。しかし、主人公は幼少の頃から目の前の世界になじめない。その様子を、主人公は「紅茶にそえられた、使われない角砂糖」のようだと感じている。そこにあることは望まれているのに、実際に使われることが無いのだ。彼女は不愉快な現実世界と自分を切り離すことで自分を保ち、その分孤独に苛まれ、しかしどうにかやりすごして生きてきた。

そんな主人公は恋に落ち、絶望する。彼氏との関係は満ち足りたものだ。しかし、彼女は彼氏と共に現実世界を生きることができない。それは恋人との「閉じ込められた」世界なのだ。この関係は限りなく均衡している。これ以上望むべくものもない。だから彼女は絶望する。彼には妻子があり、彼女は永遠に現在の状態以上に彼との関係を進展させられない。形式的にも、精神的にも。ただ会って満ち足りてしまうから、しかし、幼少から抱えた孤独感によって、目の前の世界に加われないことに絶望するのだ。おそらく、彼女は、彼女の妹がそうであるように、この世に唯一の存在として恋人から認められたいのだろう。しかし、それが叶わないことを知っているから、緩やかに自殺を図るのである。

一方で、かつての飼い犬のジュリアンのように、孤独を受け入れ、愛情を信じ、しかしそれを過信せず崇高に死んでいくことが主人公の考える理想である。しかし、彼女はそうなれない。それまでは世界と別の場所で生きていると思っていたのに、人を好きになることで現実世界への参加を望むようになったからだ。それに、だいいち彼女はジュリアンのように愛情の扱い方がわからない。手に入らない現実世界での「幸福」は「ウエハースの椅子」のようだと表現されている。「目の前にあるのに、決して腰をおろせない。」

 

この物語では、彼女の孤独感の原因は恋人の環境にあるように思われるけれど、実際にはどうだろう。仮に彼が独身だとしても、彼女は同じように孤独だと思うのではないだろうか。彼女には、ジュリアンのように、孤独を受け入れる以外に選択肢はないのだ。

強い光がより強い影をつくるように、深い関係を望めば、その分相手がいない時間により強い寂しさを感じる。友人関係でもそうだけれど、特に恋愛の方が一対一の関係として、特別な存在だと認められることができるから、より孤独に感じるということではないかな。家族(この主人公の場合は、父親)にある種屈折した思いを抱えているのなら、なおさら。でも、結局、孤独を抱えて生きていくんだって決意して生きていかないと、この主人公のように絶望することになるのだと思う。孤独を抱えながら、愛情を受け入れ、過信せず、尊厳を保ちながら死にむかってゆく。それはつまり、孤独を癒すためではなく、ただ愛情のみを起点にして関係がつながっていく、ということ。きっと恋愛だけじゃなくて、友人同士でも、家族でもそれは変わらない。それってつまりどういう状態なんだろう。

 

唐突だけど、私は岡本太郎の言葉が好きで、その一つに次のようなものがある。

さまざまな条件のなかで、それぞれ彩りは違うけれど、人間はみんな孤独なんだ。そして、何かの折に、孤独だなあ、と言いようのない寂しさを噛みしめる。
なぜ寂しいんだろうか。
人間はみんな孤りで生まれてきたんだし、結局は孤りで死んでいくしかない。それが常態であるならば、寂しいはずなんかないのに。
ぼくは、それは人間はひとりだけでは全体になりえないからだと思う。
個体は完結しているように見える。だが実はそうではないんだ。

その一方で、

孤独感にたじろいじゃって、逃避してしまっている、ごまかしてしまっているところに虚しさがあるんで、逃げない、ごまかさないで、積極的に孤独をつらぬけば、逆に人間的にひらいて、みんなと一体になることができる。

孤独は全員が持っているもので、孤独だから関係を持ちたがる。でも、関係を結ぶことで孤独を埋めるのではなく、孤独であることを認め、孤独感を共有する…

私には、それがどんな状態なのか、何をすればそうなれるのか、どれくらい強くなければいけないのか、まだわからない。でも、そうなれたら、そういう関係を誰かと紡ぐことができたら、とてつもなく素敵だろうということだけはわかる。

 

「会いたくて会いたくて震える~~」とか言ってるうちはまだまだだってことだね☆

分類としては恋愛小説なんだろうけど、生き方全般についての話だと思う。下手な言葉で内容を汚したくないので、ここでとどめる。5年後にまた読みます。

☆☆☆☆

 

 

 

 

ウエハースの椅子 (新潮文庫)

ウエハースの椅子 (新潮文庫)

 

 

 

強く生きる言葉

強く生きる言葉

 

 

スタンス的なもの

映画、本、漫画、芋けんぴ(季節限定)などの感想を思うままに書きます。

画像貼ってますが、あったほうがイメージしやすいのかなと思ってやってるだけで、これで儲けようとはあまり思ってません。

また、基本的に感想はネタバレを前提に書きます。ご注意!

 

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