芋けんぴ農場

自称芋けんぴソムリエが徒然なるままに感想や日々の雑感を記します。頭の整理と長い文章を書く練習です。

【映画】そして父になる

 

 

 

Warning!  ネタバレを含みます!

 

 

テレビをつけたら偶然やっていたので、最後まで観てしまった。

実は、この作品を観るのは2回目だ。去年にDVDを借りて観たときは吐き気がするほど泣いてしまい、とても記事を書ける状態ではなかった。

冷静になってもう一度観た今、やっぱり良い作品だなあと思う。

 

 

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野々宮良多(福山雅治)は大手建設会社で昇進街道驀進中のエリートサラリーマンだ。

高級車に乗り、高層マンションに居を構え、完璧主義の彼は毎日仕事漬けの日々である。妻のみどり(尾野真千子)とは社内恋愛の末結婚に至ったようだが、彼女は6歳の息子である、慶多の面倒を見るためか今は専業主婦だ。(彼女が家にいなければ家事はたまる一方だろうし、良多の稼ぎがあれば働く必要もないのだろう)

ある日、野々宮夫妻は病院から子供を取り違えてしまったと連絡を受ける。

取り違えられてしまったもう一方の家族は、野々宮家の対極にあるような人たちだった。小さな町の電気屋を営む斎木雄大(リリー・フランキー)と、弁当屋にパートに出て家計を支える妻のゆかり(真木よう子)、そして琉晴[りゅうせい]を始めとする3人の子供たち。

 

病院によると、取り違えが起こった場合、ほぼ血縁関係を優先させる方向に落ち着くのだという。紆余曲折を経て、野々宮・斎木夫妻は慶多と琉晴を交換して…つまり血縁同士で「家族」として生きていくことを選ぶのだが、野々宮家にやってきた琉晴は、高圧的な良多の態度に反発し、馴染んでくれない。

 

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と、ここまで「取り違え」が主題であるような書き方をしてしまったが、その実、そんなに単純ではない。この映画は、「血か育ちか」という問題と並行して、タイトルが表すとおり「父親に、親になるということは何か?」を問うているからだ。

 

 

良多は、社会的地位の低さを嫌悪しているように見える。

それは自身の父親への反発からだろう。良多の父親はギャンブルをし、社会的な成功はそれ程得ていないことが伺えた。良多は、父の前妻、つまり実の母親への思慕を物理的に封じ込めようとした父親に反発し、父親を反面教師として社会的な成功に向けて努力したのだと推測される。

 

そしてこの嫌悪感は斎木家にも向けられた。

「何で電気屋なんかに…」そう口にする場面もあったし、飲み物のストローを噛んでしまう夫妻への眼差しは侮蔑的だ。

自分は彼等よりも優れている。だから優れた父親である。息子になる人物は、(それが慶多だろうと琉晴だろうと)自分に匹敵する能力を持っていてほしいし、そのような教育もする。ピアノの発表会で息子と同年代の女の子が難しい曲を弾きこなすのを観たら、息子(この時は慶多)に「お前は悔しくないのか?」とけしかけるような父親である。

 

一方で、斎木夫妻はこのような良多の心情を少しずつ察していく。

良多の態度に不信感を抱き反発しながらも、彼らは少しずつ諭しているようにも見えた。子どもを育てるとは、親になるとはどういうことなのかを。

「自分にしかできない仕事があるんですよ」と言う良多に、「父親だって自分にしかできない仕事ちゃうんか」、「良多の父親がどうあれ、同じようにある必要はない*1

そうして、時間の蓄積が重要で、子どもと触れ合って生きていくことが尊いのだと良多は悟るようになる。

 

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しかし、勝手と言えば勝手な話である。

最初から最後まで、良多の育ての息子・慶多が意思表示をする場面は一度もない。最後に、良多との対面を拒否するという、それらしきものもあるが、尊敬する父親に「大人になるためのミッション」として「父親に会わない」というのを言い渡されたため、忠実に遂行しているだけだろう。

親の勝手で交換し、親の勝手で「(ミッションを)もうやめにしよう」という訳だ。

この騒動の前にも最中にも、息子はずっと父親のことを愛していたというのに。

 

 

私は、映画を観終わって、本当は慶多(良多の育ての息子)がどうしたいかを聞かなければいけなかったんじゃないかなと思った。琉晴は言ったのだ。「パパとママのところに帰りたい」と。それに対して、慶多は最後まで良多の言いなりだった。そのように教育したから、ということだろうか。

しかし、良多が自分だけの都合で「血筋優先」をゴリ押ししてしまったことに対して、またそれまでずっと「ダメな父親」でいたことに対して、その「ダメな父親」をずっと一途に愛してきた子どもからの赦しが必要だったのではないかと思う。

父親は生物学的には最初から父親だけど、本当の意味で「父親になる」には、親子相互の信頼と愛情が必要だ、というのがこの映画の趣旨だ。だから、本当に親子になるには、親と子、双方からの信頼が発せられていなければならず、良多が赦しを乞うたならば、当然それへの答えが、信頼の証として必要なのではないか?と思ったのである。

 

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親子関係には双方の信頼と愛情が必要と書いたけれど、もっと言えば相互に親子になる努力自体がそもそも必要なのではないか?と最近感じている。

父親という存在については、私自身が屈折した思いを抱えているところがある。最初にこの映画を観たときに大泣きしたのもそのせいだ。父は社会的にとても(と言って過言ではないだろう)成功した人で、気付けば私は、いつも心のどこかで父と張り合っているというか、認められたい、失望されたくない、負けたくない一心だった気がする。

大学に入った時点で父の学歴を越せなかったところで「父親コンプレックス」が一時悪化したのち、最近は割とどうでも良いと思えるまで落ち着いてきたのだが、それは単に学歴負けたなあと認めたから、というのが一つ。もうひとつは、私が少し大人になったことで、話したり、笑ったり、時々怒ったり、行ってらっしゃいとかおやすみを言ったり…そういう普通のことが普通にできるようになったからだと思っている。

 

裏を返せば、数年前まではこういう普通のことすらできなかった。

何か問題が起こっても、それまで話し合う時間をとる習慣も時間もまるでなかったために(家族会議というものをしたことが無い。重要なことは大体父の一存で決める家だ。)、お互いにどう対処すればよいか分からずに気づかぬフリをしていたら、どうすれば良いかお互いに分からないくらいに距離が開いていた。(書いてて涙出てきた、父ごめん。)お陰で反抗期が終わっても父娘間は氷河期のままで、お互いに無理解の末に「お前最近おかしいぞ」と言われたりもした。しかしその一方で、父に認められたい、超えたいと思う気持ちもあり、随分と精神を消耗したように思う。

 

長々と書いてしまったが、そんなコンプレックスのピークも過ぎたようで、一息ついて思うのは、血がつながっていようと何だろうと、親子でいる努力をしなければ離れていってしまうということだ。親子関係の形も年齢によって変わるだろう。その時々で力関係も変わるのかもしれない。私にとっての努力は「おやすみ、お帰り、行ってらっしゃい」を言うとか、話すときに皮肉を言わないとか、興味ない話してても相槌打つとか、その程度のことだけど、その程度のことすらできなかった時代からしたら本当によくなっていると思う。父もそういうことを意識しているのかいないのか知らないけれど、最近はあんまり嫌味を言わなくなったし、出かける時にたまに手を振ったりする。そういう些細なことをたくさん積み重ねて、経験を共有することが親子をつくるのだと思う。この映画で良多が気づいたように。

 

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今はだいぶんペースを落としているが、父はかつて、良多みたいに仕事ばかりしていた。休みの日は接待ゴルフに出かけ、接待ゴルフが必要なくなったときには会社の仕事が忙しくなりすぎていて土曜もよく仕事に出ていた。(日曜は家に居たのかもしれないが、どちらにせよ父との記憶はさほどない。)

正直、斎木夫みたいにもっと時間を割いてくれていたら、と恨めしく思ったりもした。でも、私は仕事の話をするときの父が一番好きだ。どうだ、矛盾しているだろう。

こうして絡まった思いを抱き留めて、私はもう一度父と親子になりたいと思っている。

 

 

 

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☆☆☆☆

(自分の話ばかりしてしまった…)

 

 

 

*1:概略