芋けんぴ農場

自称芋けんぴソムリエが徒然なるままに感想や日々の雑感を記します。頭の整理と長い文章を書く練習です。

【書籍】破戒/島崎藤村

 

Warning!  ネタバレを含みます!

当エントリは現代には不適切と思われる表現を含みますが、作品にあわせてそのまま使用します。

 

文学史に載っている作品はつまらないといつの頃からか思っていたのだが、なんと面白いことか!

面白いというのは語弊があるかもしれない。とてもスリリングだ。それも二重に。

 

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主人公の瀬川丑松(うしまつ)は高等小学校四年を担当*1する、非常に優秀な教師である。生徒からよく慕われており、教師間の序列も首座にある。彼には被差別階級の出身であるという秘密があった。彼の父は、この事実を告げるときに「隠せ」と命じていたのだが、一方で丑松は猪子蓮太郎という新平民*2解放運動の先鋒に立つ思想家に傾倒している。猪子の著作を読んで、彼もまた差別への反発を強めていたのである。しかし、そんな彼も、同じ下宿の住人が被差別階級出身だという理由で下宿から追放されているのを見て葛藤するようになる。猪子を尊敬していると言いつつも、自分はあのように落ちぶれたくない、と。

この丑松の心情やいざ知らず、学校では校長や新任教師である勝野文平などが結託し、学校で実力も人気もある丑松を追いやろうと謀っている。次第に彼らは丑松の出自に疑念を抱くようになり、彼の周囲に探りを入れ始めるのだ。

 

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この物語では、「隠せ」という父の教えを破るまでが描かれているのだが、そこに至る経緯として、父の存在、恋、仕事という父の教えを守る動機となっていたものが次々と丑松を離れていってしまう。

 

まず、丑松に戒めを授けた父親が不慮の事故で他界してしまう。父親は亡くなる間際にも「忘れるな」という遺言を残しているのだが、物理的に居なくなってしまったことで丑松に選択の余地が生まれたと考えることは不自然ではないだろう。

 

また、彼は引っ越し後の下宿先の養女である志保に片思いをしている。片思いと言っても、お互い行動を起こしていないだけで実際は両想いなのだが。この、お志保さんの境遇が中々大変で、彼女は他界した実母に代わって家に来た養母と上手くいっていない。その上、実家が貧乏なので寺に養女としてもらわれたのである。このお志保の弟である省吾は丑松のクラスの生徒なのだが、丑松はお志保さんに気づいて欲しくて、文具をあげたり学費を出したりと省吾に肩入れする笑 しかし、お志保さんは、事もあろうに寺の住職に手を出されてしまい、寺から姿を消してしまう。しかし、実家にも彼女の居場所が無いことを知っている丑松は、「ああ、お志保さんは死んでしまうかもしれないなあ」と思い、この恋を手放してしまうのだ。

 

この様子と並行して、校長や勝野らは丑松のポジションを得るために様々なトラップを仕掛けてくる。読者は、このままでは出自の秘密がバレてしまうのではないか、と丑松と共に一喜一憂するのである。

サクッと言ってしまうと校長や勝野は丑松が新平民であることを確信していくのだが、彼らがじりじりと丑松を追い詰めていく様子は、まるでサスペンスドラマを犯人側から見ているようなスリリングさと苦しさがあった。無論、丑松は何の罪も犯していないのだが。そして、彼等が自分の秘密を確信していると丑松が悟った時点で、彼は仕事を続けることも出来ないとわかるのである。

 

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このようにして、丑松は現在の生活を何一つ維持できないことを悟る。しかし、緊迫感はここで終わらず、次は「いったい丑松はどうなってしまうのだろう?」「この話はどうやって着地するのだろう?」、もっと言ってしまえば、「このまま丑松は死んでしまうのではないか?」といった問が読者の胸を騒がせることになる。実際、丑松は次のように独白するのだ。

今は丑松も自分で自分を憐れまずにはいられなかったのである。やがて、こういう過去の追憶がごちゃごちゃ胸の中で一緒に成って、煙のように乱れて消えて了うと、唯二つしかこれから将来に執るべき道は無いという思想に落ちて行った。唯二つ――放逐か、死か。到底丑松は放逐されて生きている気は無かった。それよりは寧ろ後者の方を択んだのである。

 

しかし、丑松にそうさせなかったのは、慕っていた猪子が何者かによって殺されてしまったからである。彼の生涯を自分のそれと比較し、彼は決意するのだ。

その時に成って、始めて*3丑松も気がついたのである。自分はそれを隠蔽そう隠蔽そうとして、持って生まれた自然の性質をすりへらしていたのだ。その為に一時も自分を忘れることが出来なかったのだ。(中略)自分で自分を欺いていた。ああ――何を思い、何を煩う。「我は穢多なり」と男らしく社会に告白するが好いではないか。こう蓮太郎の死が丑松に教えたのである。

こうして、彼は進退伺(事実上の辞表)を持って登校し、授業中に生徒に向けて告白するのである。

 

***

では、告白した後に彼は死んでしまうのか?というとそれは違った。ちゃんと救済が用意されていた。先ほど、父親の存在、恋、仕事の三つが彼の破戒を妨げていたと書いたが、そのそれぞれに希望が持てる内容になっていた。

特に心を打たれたのは、旧時代的な価値観の象徴として存在していた「隠せ」という戒めに対する、丑松の生徒たちの態度である。校長に対し、

「実は、御願いがあって上りました」と前置をして、級長は一同の心情を表白した。(中略)仮令穢多であろうと、そんなことは厭わん。(中略)教師としての新平民に何の不都合があろう。これはもう生徒一同からの願いである。頼む。こう述べて、級長は頭を下げた。

 

***

実は、丑松自身も最後まで「被差別階級は卑しい人間だ」という価値観を拭うことは出来なかった。完全に猪子のような価値観になっていたならば、彼は何故差別されなければならないのかについて、生徒に熱弁をふるったはずだ。しかし、彼の告白は違った。

実は、私はその卑賤しい穢多の一人です。(中略)

ああ、仮令私は卑賤しい生れでも、すくなくも皆さんが立派な思想を御持ちなさるように、毎日それを心掛けて教えて上げた積りです。せめてその骨折りに免じて、今日までのことは何卒許して下さい

つまり、彼は告白しながらも未だ葛藤していたように思われる。自分は「不浄な」人間である。でも、正しいことを生徒に教えるという観点からは、生徒に卑しい階級などといった思想は持ってほしくない。自分も持ちたくない、しかし世間の価値観に抗えない――。

そんな丑松の葛藤を軽々と飛び越えて、丑松という人を見て、生徒が上記のように行動したことが一番の救いだった。校長や勝野は最後まで丑松を貶めようとするのだが、そんな「汚い大人」と対照的な生徒の純真さに丑松も救われただろうし、彼らこそが次の価値観に、そして同時に希望にもなっていると感じた。

 

以上からわかるように、これは差別反対のための説教本などではない。社会啓発を目的にして書かれたならば、先ほど述べたように、猪子の立場で物語が書かれる方が適切だからだ。(文庫の帯にそのような説教めいた文が載っているのは非常に残念だ。)物語を通じて、差別の残酷さに読者が思いを馳せることはあるだろう。しかし、丑松自身が、クライマックスまでその差別的価値観を捨てることが出来なかったという事実を無視するべきではないと思う。これは、世間だけでなく、自分自身の価値観との、丑松の孤独な戦闘記録なのだ。彼は完全勝利出来なかったのかもしれない。しかし、それは生徒たちや、お志保さん、さらに今後の仕事上のパートナーを得て補完されていくことになるのだろう。

彼はきっと、もうふさぎ込んだりはしないだろう。丑松が飯山を去る時の涙は、絶望によるものではない。それまでの生活への一抹の寂しさを感じつつも、新たに始まる戦いが孤独ではなくなったからこそ、彼は静かに涙したのではなかろうか。

 

 

いくら主観的な感想とはいえ、評価をつけるのがおこがましい…

☆☆☆☆☆

 

 

破戒 (新潮文庫)

破戒 (新潮文庫)

 

 

*1:今で言う中学2年生。ただし、作中では生徒の年齢が15,6歳だという発言があり、このズレが何故発生しているのかは不明

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1

*2:江戸時代の被差別階級の明治時代の呼称

http://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E5%B9%B3%E6%B0%91

*3:原文まま