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芋けんぴ農場

自称芋けんぴソムリエが徒然なるままに感想や日々の雑感を記します。頭の整理と長い文章を書く練習です。

マイノリティ・リポート

Warning! ネタバレを含みます!

 

ずっと気になっていたのだが、なかなか観る機会が無いまま今に至ってしまった。最近Psycho-passの新編集版アニメを見ていて、この設定が前に読んだこの映画のプロットに似ていると思って観てみた次第。

ただのSF映画と言われればそれまでなのだが、社会を支えるシステムの在り方を問う作品でもあったと思う。

 

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2054年、ワシントンDCの殺人発生件数は0%。殺人を未然に防ぐシステムが構築されたからである。そのシステムは、Pre-Cogs(precognitionは超科学的な予見の意/weblioより)と呼ばれる3人の予言者に支えられている。彼らは殺人事件を予見することができるため、彼らが見るものを犯罪予防局の人間が見ることで殺人犯を未然に逮捕しているのである。

主人公のジョンは一人息子を何者かに誘拐された無念から、局長ラマール・バージェスの下で殺人犯の逮捕に従事していた。ある日、ジョンは予言者の中でも特に力の強いアガサの中にアン・ライブリーという人物が殺害された時予言に公式記録と異なるものがあると知った。上司のバージェスにも心当たりが無く、独自調査を始めることとなった。

しかしその後、なんと自分が殺人を犯すという予言がなされる。その予言では、リオ・クロウという見ず知らずの男を殺すことになっていたのである。ジョンは何者かに嵌められたと直感し、逃走する。

逃走中、ジョンは「マイノリティリポート」の存在を知ることとなる。予言者の中で予言が一致しないことがあり、その場合、「少数派」となった予言、つまりマイノリティ・リポートは予言者の脳内以外からはすべて削除されるというのである。つまり、Pre-Cogシステムが完全であることを装うために、殺人を犯さなかったかもしれない人々も逮捕されていたのだ。ジョンは、自分の予言にもマイノリティ・リポートがあるのではないかと考え、アガサを連れ去る。しかし、ジョンのケースにマイノリティ・リポートは存在しなかった。

いよいよリオ・クロウと対面すると、その男は息子を誘拐して殺害したと言う。逆上したジョンが発砲しそうになるのを堪えて情報を整理すると、その男は何者かに息子殺害を仄めかすように指示されていた。殺人を犯すように仕組まれていたのである。しかし結局、クロウは自分が殺されなければ家族に金がいかないとして、予見と同じ形で、無理やりジョンに自分を殺害させてしまう。

その後、ジョンは別れた妻の家にアガサと逃げ込んだところを逮捕されてしまうのだが、別れた妻がバージェスが黒幕だと感づき、手引きしてジョンを再び逃がす。そして、Pre-Cogシステムの全国導入祝いで、アン・ライブリーはアガサの母親であり、バージェスによって殺害されたこと、そしてその予言はマイノリティ・リポートを装う形で隠ぺいされたこと、それはアガサをシステムとして利用するためだったことをジョンは暴露する。バージェスはジョンを殺害しようとするが、殺せば自分は逮捕、殺さなければPre-Cogシステムの欠陥を自ら証明してしまうというジレンマに陥り、結末を迎えるのである。

 

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劇中の逃走シーンで、ジョンが繰り返し呟く言葉がある。

Everybody runs.

Pre-Cogシステムの下では、予言は完璧だとされているために殺人未遂犯はその場で逮捕され、投獄されるための器具を即座につけられて社会から排除される。

つまり、未遂犯に弁解の余地はなく、予言が絶対なのである。”Everybody runs”は、この一方的な刑の執行に抗う言葉であるように思われる。

未遂犯にだって言い分はある。だいたい、逮捕時点ではまだ何もしていない場合もあるのだ。しかし、「完璧」とされるPre-Cogシステムに予言されたら抗弁を行うことが出来ないから、反論したければ、そして自分の無実を信じるならば、逃げるしかないのである。私には、この言葉には圧倒的な権力に自分が信じる自分を破壊された時の忸怩たる思いが詰まっているように思えた。

 

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もう一つ印象的だったのが、予言者たちを神にたとえたセリフだ。神の予言は完璧であり、その予言の執行者としての立場に、犯罪予防局の人間は酔っている。それがたとえ言葉あそびだとしても、一連の事件の素地にはこのような姿勢があったことは間違いない。

We're more clergy than cops!

(clergy:聖職者

 

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「完璧」とはなんだろうか。goo辞書によると、『欠点がまったくないこと』だそうだ。もしも私が社会システムにおける完璧、完全性を定義するとしたら、社会の共通認識に基づく選択肢を選び続けた結果に出来上がった選択肢の集合体、とでも言うだろう。何を欠点とするかはその社会の価値観次第であることは周知である。歴史から学んだ結果としての民主主義などの政治思想や経済・法制度が存在しているが、それも例えば功利主義という一つの思想を拠り所としており、その拠り所が変化すれば社会が認める欠点だって当然変わる。

だから、残念ながら、普遍的に完璧なシステムなど存在し得ない。人間が関与できるのは、その間違う確率を最小化する試みであり、完璧なシステムを作り出すことではない。そのようなシステム想定すること自体がその完全性のほころびの始まりだと言えるのではないだろうか。

つまり、社会システムの上で生活する者に必要なのは完璧なシステムを選ぶことではなく、現行のそれをよりよくする方策であり、さらにそれに必要なのは何を捨象し、何を選び取るかを徹底して議論する姿勢である。

浅学と誤解を恐れずに言えば、最近最高裁判所裁判員の決定を破棄したことが話題になったが、必要なのは、だから裁判員制度がいけないのだといった結論に飛びつくことではない。裁判員制度は何を改善しようとしたのか、その欠点は何か、どのような社会を手に入れたいのかを様々な立場や学問領域から議論する根気強さと社会の一員しての責任感なのではないだろうか。

 

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また、映画では、システム設計を知る者のモラルハザードがすべての原因という形になった。袴田事件では、検察や警察側のでっちあげが次々と明らかになっているが、このような情報が集中する場所におけるモラルハザードが起こることを前提にして制度設計を行う重要性をも示唆しているように思われた。

映画自体の話に戻ると、ありがちな展開にもかかわらずスリルを出しながら物語を進行させる力量が素晴らしかった。

あと、主人公のジョンが追われる前、他人の逮捕に向かうときによくチャイコフスキーの悲愴が流れる。おそらく、BGMのタイトルをにおわせる以上の意味はなかったと思うけれど、彼の将来を暗示しているようで面白かった。

そういやトムクルーズってこんなに筋肉あったっけ?と思ったけど、格好いいから何でも良いっす。

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