芋けんぴ農場

自称芋けんぴソムリエが徒然なるままに感想や日々の雑感を記します。頭の整理と長い文章を書く練習です。

【小説】夜間飛行/サン=テグジュペリ

 

 

Warning!  ネタバレを含みます!

 

 

話の概要を俯瞰したいま、読むのが早すぎたかもしれない、と思った。

 

 

***

フランスから南米まで、手紙を届けるための航空便を夜間に操縦するパイロット達の話である。

飛行場の総責任者であるリヴィエールは、政治的な反対との闘いの末、この夜間飛行を行う権利を手に入れた。

 

彼はこの任務に対して非常に厳格だ。

「規則というものは、(略)ばかげたことのようだが人間を鍛えてくれる」

彼はどんな言い訳も認めず、例え天候不順だろうがなんだろうが飛行機の離陸が遅れればパイロットを罰する。他の任務についても同様である。こうして規律を徹底させ、職員全体を飛行に集中させる。そうでなければ、一瞬の慢心が大きな事故を生むことを彼は知っているからだ。

 

しかし、この仕事というものはそこまでする程のことなのだろうか。パイロット達は絶えず任地の移動を命じられるそうだ。つまり、彼らが所謂落ち着いた家庭を築くことは不可能なのである。このような個人的幸福を犠牲にしてまで価値のあることなのだろうか。

この問いに、リヴィエールは永続性という観点で答えている。個人的幸福は瞬間的なもので永続性はない。すぐに壊れうるものだ。しかし、例えばピラミッドが長い年月を経て存在するように、仕事には永続性がある。それに従事する人もまた、仕事によって永遠な存在になるのだ、と。

 

 

***

 

仕事については私はまだきちんとまとまった考え方を述べられる立場ではないのだけど、終身雇用などの仕事第一主義に見合う(と思われていた)リターンが無くなって来た現在、すべてに於いて仕事を優先させるというのは少なくなってきたんじゃないかと思う。

もしかしたら仕事は本当に個人的幸福とトレードオフなのかもしれないし、そうでもないかもしれない。

 

ただ、この話で言いたいのはそのような安い価値判断ではなくて、いわばプロジェクトXのように、如何に当事者達が情熱的に仕事を永遠のものとしているか、そしてそれはどのように達成されているか、という職員達の奮闘記だ。

 

この一点において、つまり夜間飛行という難問への挑戦者としての態度に於いて、リヴィエールは崇高な勝利者となるのである。

 

 

***

やっぱり、この話は仕事で難題に直面した時に自分を奮い立たせるために再読するのが良いと思われる。

今の自分では経験値も思考も足りなさ過ぎて感想を書くのが難しい。

 

もう一度読むときには、一切の言い訳を許さずに仕事に挑み続けるリヴィエールがきっと鼓舞してくれることだろうと思う。

 

 

***

感想を書けないという感想文になってしまったので、せめて最後に、印象深かった台詞を引用して終わる。

 

 

「あの連中はみんな幸福だ、なぜかというに、彼らは自分たちのしていることを愛しているから。彼らがそれを愛するのは、僕が厳格だからだ」p.35

 

「愛されようとするには、同情さえしたらいいのだ。ところが僕は決して同情はしない。いや、しないわけではないが、外面には現さない。」p.68

 

「部下の者を愛したまえ、ただ彼らにそれと知らさずに愛したまえ」

 

 

 

夜間飛行 (新潮文庫)

夜間飛行 (新潮文庫)

 

 追記)翻訳文が非常に読みにくく、誰かに再訳してほしいなあと思った。南方飛行という短編も収録されているのだが、あまりに読みにくくて挫折した。

評価をつけるのはもう少し時間が経ってからにする。

 

【映画】卒業

 

 

 

Warning!  ネタバレを含みます!

 

 

 

I want to be ...... different.

 

主人公のベンジャミンは成績優秀、いくつかの部活でリーダーを務めるなど、将来を期待されて大学を卒業した。

でも卒業後、家に戻る途中から彼は鬱々としている。この時の彼の心情を端的に表したのが上の台詞だ。周囲の人は自分はすごいと言う。そんなの上辺のお世辞だ。自分の人生それでいいんだっけ?

そんな時、彼の卒業祝いのパーティーで、彼は親の会社の共同経営者の妻、ロビンソン夫人に半ば陥れられるようにして関係を持ってしまう。ずるずると関係を続けるベンジャミンだが、何も知らない親から彼女の娘のエレインとデートしてくるように勧められ、渋々出かけてみると、あっさり彼女と恋に落ちてしまう…

 

***

 

この映画のタイトルである「卒業」は、世間体だけを頼りにする受動的な人生からの卒業であるように思われる。だから、この映画で重要なのは「決断」だ。しかし、幸せな形で「卒業」するのは主人公のベンジャミンとエレインだけだ。

 

冒頭で紹介した通り、ベンジャミンは大学を卒業した後、毎日悶々と過ごしている。大学院に進学することを勧められても断り、不倫する以外は何もすることが無い、まさにニートである。彼はおそらく、世間の評価を最優先させて大学まで生きてきた。だが、それに疑問を感じて身動きが取れなくなったために、積極的に選ぶことをしなければ、積極的に断ることもない。だからずるずると、会話する話題もないおばs…いや、淑女(熟女?)との不倫を続けてしまうのだ。しかし、母親と関係を持ったことをエレインに告白したことで、母娘双方との関係を壊してしまったあと、彼はエレインが好きな気持ちだけを頼りに、彼女と結婚するために彼女の大学まで追っかけることを決める。そのことをベンジャミン父に報告した時の会話がこうだ;

父;Ben, this whole idea sounds pretty half baked.

べ;No, it's not. It's completely baked. It's a decision I made.

 

この瞬間が彼の「卒業」である。これは、彼が自分で決めたことだから「生焼け」ではないのだ。これ以降、彼は彼女と結婚するために必死で行動する。客観的に見ればただのストーカーなのだが。

 

一方、エレインは大学で医学部生の彼氏を作り、最初ベンジャミンが大学に来たことを知った時にはかなり鬱陶しげである。

しかし、彼女自身も非常に揺れていて、母をレイプしたらしい男(ロビンソン夫人は不倫のことを、ベンジャミンにレイプされたとして家族に説明した)をまだ好きな自分との決着がつかずにいる。しかし、最後の最後で、自分の名前を叫び続けるベンジャミンの姿を見て決心するのである。その直前に出てくる、彼女の母、父、医学部生の彼氏が彼女に鬼の形相で叫んでいるシーンは、彼女に世間体を守ることを強いるしがらみの象徴のようだ。自分に向けて怒鳴りまくる3人を見て、彼女は世間体ではなく自分の心が向く方を選択することを決め、彼女も「卒業」する。

 

だが、一人「卒業」出来なかった人がいる。ロビンソン夫人だ。

彼女は夫への愛情はとっくの昔に無くしているように見える。エレインを身ごもってしまったから仕方なく結婚し、仕方なく今まで一緒にいただけだ。

そんな彼女が初めて(?)決断したのがこの不倫だったわけだが、ベンジャミンが彼女との不倫を娘(エレイン)に告白したことで、彼女は今まで自分が守ってきた夫との関係も、今回決断して得たもの(ベンジャミン)も失うことを悟る。そしてベンジャミンとの縁を切り、逆に彼と娘の恋路を邪魔しようとする。

最後のシーンで、ベンジャミンが結婚するためにエレインの前に現れた時、彼女は最初は余裕な風である。エレインは自分のように世間体を優先させると思っているからだ。しかし、エレインがそうしないとわかると取り乱し、最後は娘にビンタを浴びせて叫ぶ。

ロビンソン夫人;It's too late!

それに対するエレインの返しが痛快だ。

エレイン;Not for me!

もちろん、これはNot for me, (but for you)!ということだろう。彼女は母親が世間的価値観に縛られているのも、そうする他にないほどに年を重ねてしまったのも知っているから、自分はまだ間に合うんだ!と叫んで母親と決別するのだ。

 

(本題からはずれるが、この母にしてこの娘ありというか、、恋人がいながらベンジャミンとキスするエレインもエレインだ…大体母親と不倫してた男を選びます?)

 

*****

こうして概ねハッピーエンドなのだが、この映画の主張に対してはなんだかな、もっと楽に生きても良いんじゃないかな、と思ってしまう。

おそらく、作り手としても、こうして世間体を守ることを否定して生きることは幸せいっぱいなことではない、と認識している。その証拠に、ラストシーンでバスに乗る二人はどこか諦めたような、少し寂しい顔をしている。

世間体を徹底して否定しながら生きると、その分摩擦も大きくなって孤立しかねないと思う。この映画の二人のように0か100ではなくて、一部世間の価値観も取り入れながら、譲れないところだけ無視する方がずっと楽なんじゃないかな。はっきり否定することだけが偉いんじゃなくて、表面的には態度を保留しながら、自分の中では絶対に認めないとか、何らかの形で自分で折り合いをつけたほうが、周りの人の助けを得やすくなるのは事実だと思う。

最近よく思うのだけど、平凡な生活も、簡単に何かの拍子にうまくいかなくなる。だから、ある種の保険として、(それに人間関係にそんなに潔癖にならなければいけない理由なんかないわけだし)薄くでも良いから周囲との関係を温存しておくのは悪いことではない。映画としては地味だから取れない選択だとは思うけど、派手に反発すること=能動的に生きること、ではないことを知るべきだ。

 

***

そういう青臭いというか、今にも崩れてしまいそうな価値観を、ダスティンホフマンがよく演じていたと思う。特に、前半の悶々としているシーンでは文字通り死んだ魚の目、エレインにスイッチが入ってからは本当にエレインのことしか考えてない目をしていて面白かった。

また、Simon & GarfunkelのThe Sound of Scilence, Scarborough Fairがそういう言いようのない不安をよく醸していてとても印象深かった。

 

人生哲学的な何かを得るというよりも、劇中人物たちの若さを楽しむ映画なのだと思う。

ちょっと字幕の翻訳が雑なのが気になったよ。

 

 

☆☆☆

 

 

卒業 [DVD]

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【小説】告白/湊かなえ

 

 

Warning!  ネタバレを含みます!

 

 

胸糞悪い本・オブ・ザ・イヤーになることはほぼ決定だろう。

この嫌悪感が向けられているのは物語に出てくる全ての登場人物と自分、それにこの話を作った作者に対してである。

 

***

まず、これは意図的だと思うが、起こった事件に対して登場人物が罪の意識を持つことが全く無い。劇中にいくつか殺人が起こるのだが、その一つたりとも誰も反省しない。誰かが悪いのだ、自分がしたことは仕方なかったのだ、そんな姿勢が貫かれている。

愛娘を殺された教師である森口は、犯人である生徒をなじる。母親が憎いのなら母親を殺せ、なぜ私の娘を殺すんだ、と。しかし、森口はこう正論で理論武装しつつも、自身も何人もの人が巻き添えになる方法を選んで復讐を果たす。この物語に正義は無い。登場人物のほとんどが自分なりに誰かを私刑に処し、それが復讐の連鎖として連なっているだけなのだ。

だから、最後に森口にとどめの復讐をされた少年は、きっとまた彼女に復讐をするだろう。なぜならそれがこの物語のエッセンスだからだ。

私は文庫本を読んだので、巻末に映画を撮った中島監督のインタビューが載っていたのだが、そこに、彼が二人目の犯人Bの母親を「人間らしい」と評している箇所があった。だが、私は、登場人物それぞれに人間らしさとらしくなさの極値が搭載されているようだなと思った。犯人Aはその最たるものだ。母親への復讐にこだわり、粛々と状況に対処していく彼はとても人間らしくない。まるで感情が無いみたいだ。独白を読んだ後ですらそう思った。しかし、この母親への執着はなんだ。気持ちを何度も屈折させて、ひどい形でしか思いを伝えられないという彼は、まさしく中学生相応の幼さを持っていて、この二つが容易に彼の中で共存していることにある種の驚きを覚えた。それと同時に、このアンバランスにバランスが取れた状態が無ければ、私はきっと読み終えることが出来なかっただろうと感じた。この人間臭い極値だけが、私が登場人物たちを肌感覚で理解することができる唯一の手がかりだったからだ。

他のキャラクターも多かれ少なかれこんな感じだが、森口だけは別だ。彼女は、まるで何を考えているか分からない。彼女に感情が残っているかどうか定かではない。読む限りは、彼女は犯人を追いつめるためならその周囲の人間を巻き込むことも辞さない復讐マシーンでしかない。もう彼女は人間ではないのかもしれない。途中までは愛娘を失ってさぞ辛かろう、などと考えていたが、そのような描写は殆ど出てこない。彼女の言葉は、奥にとんでもないものを秘めているにも関わらず、嘘みたいにさらりと流れていってしまうのだ。上辺の上澄みだけ掬って見せられている感じ、とでもいえばいいのかな。

 

***

ここで、自分への嫌悪感である。

私は、登場人物を怖々眺めていた。彼らの行動について理解できる範囲が極めて限定的だったからである。

しかし、読み進めている間にわいてきた感情は恐怖ではなかった。

下卑た好奇心だったのだ。

 

私は劇中に登場するクラスメイトの一人だった。

彼らは、担任の娘が学校で事故死した翌日は浮足立って噂をし、犯人が同級生とわかればいじめに走る。彼らに呼応するかのように、私もワクワクしていた。このワクワクという言葉が適当な言葉であるとは思わないが、猟奇的な事件を扱うワイドショーを食い入るように見てしまうあの感じ、と言えば通じるだろうか。真面目な顔をしているふりして、面白そうだから知りたくて仕方ないーーこれは明らかにモブの心の在り方だと思った。ページをめくりながら、「これはとんでもない話だ。小さな復讐がより大きなものへと繋がっていくだろう」とわかっていながらも手を止めることなく次の展開を心待ちにしている自分を見つけて、私は自分に嫌悪したのだ。

 

***

最後に、この物語を書いた作者に対して。

いろんなタイプの作家が居て当然良いと思うし、作者自身は「普通の人」だからこの話が書けたんだと思うし、需要があるから売れたんだろうし、、、

彼女に対する色んな擁護を自分の中でしてはみたものの、やはり私は殺人をこのようにエンターテイメントとして作品にしたことに抵抗を感じざるを得ない。さっき書いたように、登場人物の徹底した贖罪意識の無さや、いつの間にか読者(私)をクラスメイトの一人にしてしまう手腕には脱帽するが、面白ければ何でもいいのか?売れれば何でもいいのか?と思ってしまう。確かにミステリーやサスペンスは殺人を使った娯楽なのだけれど、徹底的に人間の「怖いものみたさ」を利用された気がして、これには抵抗しなければいけないという指令が本能的に脳から出ている。

ただ、売れるということは読む側にも原因があるのだろう。そういう意味でも問題作である。

 

 

☆☆

 

告白 (双葉文庫) (双葉文庫 み 21-1)

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【小説】包帯クラブ/天童荒太

 

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Warning!    ネタバレを含みます!

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辛いことがあった、という話を聞いている時は「わかるー」って安易に言わないようにしている。いや、そういうけどさ、実際わからないでしょ、何が分かるのか説明してみ、ん?ってきっと言われた方は思うだろうなと思って。

でも、そうしているとジレンマにぶつかる。

私はせいぜい20数年しか生きていないわけで、含蓄のあるアドバイスなんかほいほい出てこない。安易な共感が許されないのならば、文字通り話を聞く以外に何もできないではないか、それでは辛いことを話してくれている相手のプラスになるようなことは何もできていない。

中には、言葉に出すことで気持ちが軽くなるという人もいるかもしれないけれど、それを話を聞く側が言うのは怠慢なのではないか…。

 

こんな問いにひとつの答えを出したのが、本書『包帯クラブ』である。

 

***

主人公の女子高生・ワラは、風変りな高校生・ディノと会ったことをきっかけに、同級生のタンシオ、その友人のギモと共に、包帯を巻く活動を始めた。

様々な人が傷を受けた場所に行き、その場所に包帯を巻く、その傷を受けた人が別の場所にいる場合にはその写真を撮影して送る、というのがこの「包帯クラブ」の活動である。

 

ワラは言う。

世界の片隅のだれかが、知ってくれている、わたしの痛み、わたしの傷を知ってくれている……だったら、わたしは、少なくとも、明日生きていけるだけの力は、貰えるんじゃないか……傲慢かもしれないけど、そんな気がした。(p.97)

彼女たちは、打ち明けられた傷に対して包帯を巻くことで、その傷が確かに存在することを可視化して認める。傷が傷として存在することを認めることによって、その傷の持ち主の心のつかえを和らげることが出来るのではないか、というわけである。

人に傷を与えうるすべてのもの、例えば「理不尽」、たとえば「孤独や孤立」、たとえば「差別」。他人から見ればどんなに些細なものでも、それが傷として存在する限り、その通りに認識する。

傷は人の生きる気力を奪いうるものだから、そうやって傷を認め、その痛みを和らげることで消極的にそういった傷の力と戦う…というのがこのクラブの本質であるようだ。

そうやって傷を受け・(他人に包帯を巻かれながらも)乗り越えることを繰り返しながら、こんな苦しいリングに上がり続けられるのは、そこに愛があるからなのではないか、という趣旨で物語は閉じられる。

 

***

上記のように纏めると、とても優しい話のようにみえるが、実際に言っていることはかなりマッチョであるように感じた。

傷をそれぞれ固有のものと認めることは、その傷(経験)を相対化しないことである。それはつまり、よくある「自分よりもっと大変な人がいるんだから…」と自分を誤魔化すことはできず、さらに、他人からも「自分が何かできるとは思わないけど、せめて労りの言葉だけはかけるね」という態度で接されることを前提とすることを意味しているからである。

自分の傷が自分に固有のものであるならば、他人のそれも同様である。だから、自分が傷ついた時に「私は世界一不幸な人間なの。あなたよりずっと大変な目にあったの、話を聞いて慰めてちょうだい」なんて同情を買うことは許されないのだ。

つまり、この本の結論を突き詰めると、自分の傷は自分で乗り越えろ、そして、他人の傷も認めてその人が明日を生きる理由を作って行こう…となる。これって、かなり強い精神力が求められると思うのは私だけだろうか。

 

***

だから、私は、余裕が無いときには忘れるのを待ってもいいし、毎日の中に楽しいことを見つけて視線をそらしてもいいと思う。

はっきりとはまだ分からないけれど、傷と一緒に生きることも模索していいのかもしれない。この本の冒頭では、

わたしのなかから、いろいろ大切なものが失われている。

(中略)

これは、戦わないかたちで、自分たちの大切なものを守ることにした、世界の片隅の、ある小さなクラブの記録 (p.5)

とある。戦わないかたち、とはあるが、それは積極的な防衛策(例えば理不尽に対して抗議する、など)を取らないことであり、傷は和らげるべきものとして描かれている。

しかし、数年経って別の視点を得ることで、当時何が起こったかを理解することもあるかもしれない。本書で述べられているようなマッチョな精神を持つ余裕が無い時には、傷を自分で乗り越えられずに、より苦しくなってしまうかもしれない、そんな時には、時間が経って、いろんな人に頼りまくったり忘れたりできる機会を待ってもいいんじゃないか。

 

一方で、もしも傷を打ち明けられたら、その傷を持つ人が望むものをあげても良いんじゃないかと思う。同情してほしければ同情するし、ただ話しを聞いてほしければ聞くし、批判をしたいのなら、特に止めずに批判を聞くと思う。聞き手が、こうあらねばならないという理想に拘るのではなく、取りあえず「いま生きること」を続けるために、短期的に一番楽になる方法を探し続けることも時には必要なんじゃないか、そんなことを考えていた。

 

***

個人的には、筆者が高校生当時の主人公の言葉づかいで思想を語らせていたのが若干分かりにくく、まとめるのに少し時間がかかった。

大変なときも他人に優しく、というメッセージはしかと受け取った。

 

 

☆☆☆

 

 

包帯クラブ (ちくまプリマー新書)

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【映画】サイコ

 

 

Warning!  ネタバレを含みます!

 

 

 

今回は言わずと知れたヒッチコックの名作、サイコ。

人間は理解できない存在を前にしたときに怖いと感じるのかな、と作品を通して気づいた。

 

***

主人公のマリオンは長年勤めた会社の金を持ち逃げした旅に出ていた。大嵐の夜、彼女はノーマンという若い青年とその老母が経営する寂れたモーテルに宿泊する。そこで、かの有名なシーンと共に彼女は何者かに殺害される。

その後、横領に気付いた会社がマリオンを探しに、私立探偵をモーテルによこすのだが、探偵はマリオンの姉・ライラに「モーテルの青年に匿われているのではないか」と電話した後、殺害される。

探偵が戻ってこないことを不審に思ったライラは、マリオンの恋人のサムと共にモーテルに乗り込む。モーテルの老母がマリオンを悪く言っていたことを探偵から聞かされていたことから、サムがノーマンを足止めしている間に、ライラは老母と話をつけに、離れの屋敷に足を踏み入れ、真相に迫る。

 

 

***

観客は、サスペンスらしく「誰がマリオンと探偵を殺したのか?」という謎解きをしながら観ることになるのだが、とにかく観客を混乱させる仕組みが素晴らしかった。

最初のマリオンの殺人では、結構背の高い人物であることを見せ、ノーマンが主犯なのかなと思わせる。しかし、その後彼が殺害現場に到着したとき、一瞬驚いたような表情をしつつも、淡々と遺体を処理していく。ここで既に筆者の頭は大混乱である。次に、探偵が殺された時ははっきりと老母のようなシルエットが映る。ここで、ああ、この青年は殺人狂の母親の尻拭いに慣れているのかもしれないと思い始める。

だが、その後、老母は遥か昔に色恋沙汰で心中したという情報が加わり、さらに頭が混乱することになる。

 

***

そして、真相が明かされて一応全ての伏線が回収されるわけだが、最後にまさに「サイコ」な顔をした犯人の顔を見ると、理解の範疇を超えるものに対する得体のしれない恐ろしさに包まれた。

映画中盤までの犯人捜しのドキドキとは違って、内臓を舐められたような気味の悪さであった。この映画を観たのは数日前なのだが、犯人捜しのスリリングさは短期的に最高点に達してすぐに忘れ去られるのに対し、この気味の悪さ由来の恐怖感は今でも残っている。

 

シンプルでありながら名作と謳われるのは、このような異なるインパクトが計算して盛り込まれているからではないだろうか。

 

☆☆☆☆

 

 

サイコ [DVD]

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【映画】バルフィ!人生に唄えば

 

 

Warning!  ネタバレを含みます!

 

  

心は言葉より重い。

この主題を繰り返し、主人公のバルフィのような率直さで描いた映画だ。

 

*** 

バルフィは耳が聴こえず、話すこともできない。しかし、彼は自分の気持ちを迷いなく伝える。全身で表情し、瞬く間に見る者の感情をさらってしまう。

シュルティもその一人だった。彼女は資産家の美しい娘で、バルフィの猛アプローチに次第に心が傾いていく。しかし、バルフィとデートを重ねる間も、彼女は婚約を破棄することができない。バルフィには両想いであることを示しながら、婚約者との関係も切らない彼女に彼は激怒し、彼女の元を去ってしまう。

そしてシュルティはバルフィに未練たらたらのまま結婚。一方、父親が急病に倒れ、金策に困ったバルフィは父の元雇い主の家の娘・ジルミルを誘拐して身代金を請求することを思いつくのだが、幸か不幸か別の何者かに誘拐された彼女に偶然出くわす。時すでに遅しで父親が亡くなってしまったことから、バルフィはそのままジルミルと旅に出る。彼女は自閉症であり、最初はバルフィを恐がっていたが、次第にバルフィの朗らかさに惹かれ、恋仲になっていく。

旅の途中で偶然シュルティに会った際にジルミルが彼女にやきもちを焼いたところから、ジルミルは失踪する。失意に沈むバルフィを支えようと、シュルティは結婚生活を捨てて彼に寄り添うが、バルフィの気持ちが彼女に向くことは無かった。

結局、ジルミルは親類が経営する施設で暮らしていることが分かり、バルフィは彼女を訪ねて彼女の気持ちを確かめ、二人は文字通り死ぬまで幸せに暮らした。

 

***

言葉が聴こえず、話すこともできないバルフィが何より信用したのは、相手の態度である。それはシュルティとジルミルに拘わらず、友達でも同じだ。

この映画では、言葉は仮初めの態度、心は本心や無垢な心情の象徴としてそれぞれの単語が使われており、「言葉」も「心」も日本語の意味とは100%一致しないように思われる。確かに最初の方は特に、バルフィには言葉が聴こえないということが問題にされるのだが、結局肝心なのはそれを示せるかどうか、という一点にかかっているからだ。もしかしたら翻訳の問題があるのかもしれない。

 

とにかく、この「態度/心こそが大事なのだ」というメッセージを象徴している思われるのが、電燈のシーンである。

バルフィは、電燈が倒れるすぐそばでそれを見守るという肝試しをしていた。相手は自分を信頼して、最後までひとり逃げずにおれるか、すなわちどれ程強い絆で結ばれているか、というのを試すためである。

映画冒頭で映った友達も、シュルティも逃げた。でも、ジルミルは逃げなかった。バルフィはきっと、あの瞬間からジルミルに一生を捧げることを誓ったのだろう。

 

彼にはどんな飾った言葉も通じない。だからこそ、彼はこの「試練」をクリアしたジルミルを選んだのだ。電燈が倒れてくるときにシュルティが手を放してしまったのは、婚約者と結婚することを選んでバルフィの元を去ることになる予兆だったのである。

 

***

ところで、この映画にはいくつかの映画のオマージュと思われるものが存在している。タイトルが『雨に唄えば』を意識しているのはもちろんのこと、劇中音楽や、シュルティとバルフィが自転車に乗るシーンは『アメリ』を、物語の最後の、病院でのバルフィとジルミルのシーンは『きみに読む物語』のオマージュなのは間違いない。

しかしながら、この映画で表されたリスペクトとは相いれず、筆者は『きみに読む物語』があまり好きではない。その最大の理由は、三角関係で敗れる側の人間が悪者扱いされている点だ。現実がそんなに単純なら誰も苦労しないし、悪者だって愛していた人に捨てられたら悲しい、その悲しみはすべて無視して二人でハッピーエンドで良いのかい?と言いたくなるのだ。

その点、この映画では、バルフィ、シュルティ、ジルミルの三人の間に悪者がおらず、最後にジルミルとバルフィが幸せな生活を送る様子がシュルティ視点で語られていることにとても親切さを感じた。前述のように、より現実に起こりうる感情や論理に合わせて物語の落としどころがつけられているからだ。具体的には、シュルティが、正直ジルミルが失踪して少し喜んでいる自分がいました、と告白していること、そしてそれに乗じてバルフィについていったが上手くいかなかったこと、しかし最後はバルフィのパートナーはジルミルなのだと認めること、そしてその後の人生は聴覚障碍者学校の教師として過ごすことなどである。

 

***

シュルティは言う。「もっと自分の心にしたがっていればよかった、私が間違っていた」と。

確かに結果だけ見れば、彼女は元彼に未練がありすぎて夫から家を追い出されたうえ、その元彼にも相手にされなかった「負け犬」(とでも言えばいいのだろうか)である。

でも、彼女は惨めな負け犬ではない。私は、彼女が一番、人間くさい愛にあふれた人だと感じた。皮肉にも、「心に従い」「無垢な心で相手を思いやる」というバルフィとジルミルの在り方を手に入れた結果、彼女は二人の結婚を後押しするほかはなかった。でも、彼女はそんなスタンスを捨てるという決断だってできたはずだ。その時、自分の好きな人が別の人を選ぶ瞬間を自分の意志で後押しできるだろうか。この葛藤の泥臭さに、私は共感してしまうのだ。

 

 

***

前半のコメディ調で油断していたら、あっという間にシリアスな三角関係が始まっていて戸惑ってしまった。

バルフィという若干空想的なキャラクターを用いながらも、フィクションだから、という甘えを極力排除した良い作品だった。

☆☆☆☆

 

 


映画『バルフィ! 人生に唄えば』予告編 - YouTube

 

 

アメリ [Blu-ray]

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 (アメリの音楽大好き!)

 

【書籍】破戒/島崎藤村

 

Warning!  ネタバレを含みます!

当エントリは現代には不適切と思われる表現を含みますが、作品にあわせてそのまま使用します。

 

文学史に載っている作品はつまらないといつの頃からか思っていたのだが、なんと面白いことか!

面白いというのは語弊があるかもしれない。とてもスリリングだ。それも二重に。

 

***

主人公の瀬川丑松(うしまつ)は高等小学校四年を担当*1する、非常に優秀な教師である。生徒からよく慕われており、教師間の序列も首座にある。彼には被差別階級の出身であるという秘密があった。彼の父は、この事実を告げるときに「隠せ」と命じていたのだが、一方で丑松は猪子蓮太郎という新平民*2解放運動の先鋒に立つ思想家に傾倒している。猪子の著作を読んで、彼もまた差別への反発を強めていたのである。しかし、そんな彼も、同じ下宿の住人が被差別階級出身だという理由で下宿から追放されているのを見て葛藤するようになる。猪子を尊敬していると言いつつも、自分はあのように落ちぶれたくない、と。

この丑松の心情やいざ知らず、学校では校長や新任教師である勝野文平などが結託し、学校で実力も人気もある丑松を追いやろうと謀っている。次第に彼らは丑松の出自に疑念を抱くようになり、彼の周囲に探りを入れ始めるのだ。

 

***

この物語では、「隠せ」という父の教えを破るまでが描かれているのだが、そこに至る経緯として、父の存在、恋、仕事という父の教えを守る動機となっていたものが次々と丑松を離れていってしまう。

 

まず、丑松に戒めを授けた父親が不慮の事故で他界してしまう。父親は亡くなる間際にも「忘れるな」という遺言を残しているのだが、物理的に居なくなってしまったことで丑松に選択の余地が生まれたと考えることは不自然ではないだろう。

 

また、彼は引っ越し後の下宿先の養女である志保に片思いをしている。片思いと言っても、お互い行動を起こしていないだけで実際は両想いなのだが。この、お志保さんの境遇が中々大変で、彼女は他界した実母に代わって家に来た養母と上手くいっていない。その上、実家が貧乏なので寺に養女としてもらわれたのである。このお志保の弟である省吾は丑松のクラスの生徒なのだが、丑松はお志保さんに気づいて欲しくて、文具をあげたり学費を出したりと省吾に肩入れする笑 しかし、お志保さんは、事もあろうに寺の住職に手を出されてしまい、寺から姿を消してしまう。しかし、実家にも彼女の居場所が無いことを知っている丑松は、「ああ、お志保さんは死んでしまうかもしれないなあ」と思い、この恋を手放してしまうのだ。

 

この様子と並行して、校長や勝野らは丑松のポジションを得るために様々なトラップを仕掛けてくる。読者は、このままでは出自の秘密がバレてしまうのではないか、と丑松と共に一喜一憂するのである。

サクッと言ってしまうと校長や勝野は丑松が新平民であることを確信していくのだが、彼らがじりじりと丑松を追い詰めていく様子は、まるでサスペンスドラマを犯人側から見ているようなスリリングさと苦しさがあった。無論、丑松は何の罪も犯していないのだが。そして、彼等が自分の秘密を確信していると丑松が悟った時点で、彼は仕事を続けることも出来ないとわかるのである。

 

***

このようにして、丑松は現在の生活を何一つ維持できないことを悟る。しかし、緊迫感はここで終わらず、次は「いったい丑松はどうなってしまうのだろう?」「この話はどうやって着地するのだろう?」、もっと言ってしまえば、「このまま丑松は死んでしまうのではないか?」といった問が読者の胸を騒がせることになる。実際、丑松は次のように独白するのだ。

今は丑松も自分で自分を憐れまずにはいられなかったのである。やがて、こういう過去の追憶がごちゃごちゃ胸の中で一緒に成って、煙のように乱れて消えて了うと、唯二つしかこれから将来に執るべき道は無いという思想に落ちて行った。唯二つ――放逐か、死か。到底丑松は放逐されて生きている気は無かった。それよりは寧ろ後者の方を択んだのである。

 

しかし、丑松にそうさせなかったのは、慕っていた猪子が何者かによって殺されてしまったからである。彼の生涯を自分のそれと比較し、彼は決意するのだ。

その時に成って、始めて*3丑松も気がついたのである。自分はそれを隠蔽そう隠蔽そうとして、持って生まれた自然の性質をすりへらしていたのだ。その為に一時も自分を忘れることが出来なかったのだ。(中略)自分で自分を欺いていた。ああ――何を思い、何を煩う。「我は穢多なり」と男らしく社会に告白するが好いではないか。こう蓮太郎の死が丑松に教えたのである。

こうして、彼は進退伺(事実上の辞表)を持って登校し、授業中に生徒に向けて告白するのである。

 

***

では、告白した後に彼は死んでしまうのか?というとそれは違った。ちゃんと救済が用意されていた。先ほど、父親の存在、恋、仕事の三つが彼の破戒を妨げていたと書いたが、そのそれぞれに希望が持てる内容になっていた。

特に心を打たれたのは、旧時代的な価値観の象徴として存在していた「隠せ」という戒めに対する、丑松の生徒たちの態度である。校長に対し、

「実は、御願いがあって上りました」と前置をして、級長は一同の心情を表白した。(中略)仮令穢多であろうと、そんなことは厭わん。(中略)教師としての新平民に何の不都合があろう。これはもう生徒一同からの願いである。頼む。こう述べて、級長は頭を下げた。

 

***

実は、丑松自身も最後まで「被差別階級は卑しい人間だ」という価値観を拭うことは出来なかった。完全に猪子のような価値観になっていたならば、彼は何故差別されなければならないのかについて、生徒に熱弁をふるったはずだ。しかし、彼の告白は違った。

実は、私はその卑賤しい穢多の一人です。(中略)

ああ、仮令私は卑賤しい生れでも、すくなくも皆さんが立派な思想を御持ちなさるように、毎日それを心掛けて教えて上げた積りです。せめてその骨折りに免じて、今日までのことは何卒許して下さい

つまり、彼は告白しながらも未だ葛藤していたように思われる。自分は「不浄な」人間である。でも、正しいことを生徒に教えるという観点からは、生徒に卑しい階級などといった思想は持ってほしくない。自分も持ちたくない、しかし世間の価値観に抗えない――。

そんな丑松の葛藤を軽々と飛び越えて、丑松という人を見て、生徒が上記のように行動したことが一番の救いだった。校長や勝野は最後まで丑松を貶めようとするのだが、そんな「汚い大人」と対照的な生徒の純真さに丑松も救われただろうし、彼らこそが次の価値観に、そして同時に希望にもなっていると感じた。

 

以上からわかるように、これは差別反対のための説教本などではない。社会啓発を目的にして書かれたならば、先ほど述べたように、猪子の立場で物語が書かれる方が適切だからだ。(文庫の帯にそのような説教めいた文が載っているのは非常に残念だ。)物語を通じて、差別の残酷さに読者が思いを馳せることはあるだろう。しかし、丑松自身が、クライマックスまでその差別的価値観を捨てることが出来なかったという事実を無視するべきではないと思う。これは、世間だけでなく、自分自身の価値観との、丑松の孤独な戦闘記録なのだ。彼は完全勝利出来なかったのかもしれない。しかし、それは生徒たちや、お志保さん、さらに今後の仕事上のパートナーを得て補完されていくことになるのだろう。

彼はきっと、もうふさぎ込んだりはしないだろう。丑松が飯山を去る時の涙は、絶望によるものではない。それまでの生活への一抹の寂しさを感じつつも、新たに始まる戦いが孤独ではなくなったからこそ、彼は静かに涙したのではなかろうか。

 

 

いくら主観的な感想とはいえ、評価をつけるのがおこがましい…

☆☆☆☆☆

 

 

破戒 (新潮文庫)

破戒 (新潮文庫)

 

 

*1:今で言う中学2年生。ただし、作中では生徒の年齢が15,6歳だという発言があり、このズレが何故発生しているのかは不明

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1

*2:江戸時代の被差別階級の明治時代の呼称

http://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E5%B9%B3%E6%B0%91

*3:原文まま